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第57話 砂影に蠢く陰謀

 翌朝。ゼルハラの空はまだ昨夜の名残を抱えていた。城壁の向こうで、砂の光が薄く赤黒く霞んでいる。市場の天幕は半分しか開かれず、香辛料の匂いが冷たい朝風に薄まっていった。


 エルディア派――エルディアの執務室。磨き上げられた黒曜の机に報告書が重ねられ、銀の杯が冷たく光った。格子窓から差す光が斜めに床を切り、埃が金の粒のように漂う。壁の彫り物には古い護符が嵌め込まれ、金属の匂いと乾いた薬品の香りがわずかに混じっていた。エルディアは指先で杯の縁を回し、頁から目を上げる。


 扉が開く。葉巻の匂いとともに、ガルマが入ってきた。


「転移の依頼だ。

 ――二十層まで飛ばせ」


 淀みのない言葉。エルディアは眉をわずかに動かし、椅子にもたれた。


「無理よ、二十層なんて潜ったこともない。そもそも座標が固定できない場所へは送れないわ。ダストホロウだと、十五層キャンプまで」

「構わねぇ。そこから歩く」


 ふっと、エルディアの口元に微笑が生まれる。


「“不死身”を連れていくのね」

「他にいるか。――砂の底は、待ってくれねぇ」


 エルディアは書類を閉じ、指で机を二度、軽く叩いた。窓の外で、鳶が高く輪を描く。


「随分と焦っているのね。

 ――いいわ。ただし代償は高い。魔道具は万能じゃないし、使うたびに“焦げる”」

「砂の上じゃ、代価を払うのは慣れてる」


 踵を返すガルマ。扉が半ば閉まりかけたとき――


「待ってください。」


 廊下の影から、白手袋が揺れた。異端審問官カイン。古びた魔導書と十字架剣を携え、淡い眼差しでガルマを見る。書の小口に刻まれた古符が、呼気に合わせて微かに灯った。


「私も同行させてもらいます。……砂の底で起きることを、見届ける義務があります。」

「勝手にしな」


 短く吐き捨て、ガルマは歩き出す。背後で、カインの頁が一枚、風に捲れた。


 室内にひとり残ったエルディアは、小さく息を吐いた。


「……私たちもそろそろ動かないと、ね」


 机上の転移陣図面が、朝の光で薄く脈を打った。机の端に置かれた黒曜の輪が、かすかに震え、金属音にも似た余韻を残す。


     ◇


 闘技場の控室。白い光が斜めに差し、消毒薬の匂いが薄い。壁に掛けられた水盆には細い血糸がうっすら広がり、清潔な布が木箱に積まれていた。


 セリナが手をかざすと、ドーレイの皮膚の下で血の糸が静かに繋がった。傷はもう塞がっている。ただ、熱だけが残る。耳の奥で脈が二重に打ち、床石がそれに呼応するように微かに震えた気がした。


「尋常じゃない回復力です。……だからって、無理は」

「わかってる」


 ドーレイは掌を握った。骨の奥で、砂の音がする。扉がノックもなく開き、ヴェラが顔を覗かせる。


「動けるなら来いって。ガルマが呼んでたわ」

「……行く」


 立ち上がる背に、セリナの視線が刺さる。「無茶は、しないでください」ドーレイは頷いた。剣帯の金具がかすかに鳴り、乾いた音が廊下へ消えた。


     ◇


 昼下がり。北方街道の最後のオアシス。低い椰子の影が水面を掠め、家々は砂風避けに背を寄せ合っている。水場には羊が三、四頭、膝まで浸かり、蹄で濁りを上げていた。井戸端の女たちが壺を運び、遠くで風読みの風鈴がからりと鳴る。


 商人ハグルの馬車列が門をくぐると、番兵が安堵の色で頷いた。「ゼルハラからか。……良い旅を」焚火の煙が香辛料を運ぶ。干した砂蜥蜴と薄焼きパンの香りが、空腹を静かに刺激した。


 宿の土間で、ハグルは大仰に両手を広げた。


「ひとまずはここで一泊だ。バルディアまで、あと一息」


 ランドが尻尾を振り、鼻先で空気を嗅ぐ。「肉の匂い、スパイス、酒……最高」


 ヴァルスは槍を壁に立てかけ、荷の点検を続けた。「休むときほど警戒を緩めるな」革紐を締め直す手は、癖のない速さで動く。


 食堂の隅では、旅人が噂を交わしている。


「北の国境付近で、また攫いが出たらしい。女も子供も……」「グレイウルフ傭兵団だってよ」


 シェラが耳を傾ける。「……嫌な話ね」


 ジャレドが静かに視線を向けると、カウンターの向こうでハグルが笑った。


「物騒な話ばかり拾って、酒が不味くなるぞ。ほら、麦酒だ麦酒」


 笑いながら、ほんのわずかに目が泳ぐ。話題がそこに触れると、すぐ別の話を差し込む癖。ジャレドは盃を受け取りながら、黙って観察した。泡の弾ける音がやけに大きい。


 ――夜、宿の裏手で水を汲むハグルの背に、見知らぬ商人が近づく。額には梟の刺青。水瓶の縁を爪で叩く小さな音。


「……計画は?」

「問題ない」


 小声が砂に沈む。やり取りは短く、影はすぐに散った。表に戻ったハグルは、いつもの陽気な顔に戻っていた。袖口の砂だけが、さっきより濃い。


     ◇


 同じ頃、地の底。ダストホロウ二十層、北部。天井は見えないほど高く、黒い柱が遠近を狂わせる。乾いた空気に、鉄と苔の匂いが薄く混じっていた。足下の砂は細かく、踏むたびに音が吸われる。


 アイリスが掌を上げると、薄い符が舞い、砂の上に立体の地形が浮かび上がった。淡い青が、地下に広がる広大な砂漠を線にし、古い回廊と崩落帯を縫い合わせる。投影の輪郭が一瞬だけ滲み、すぐに戻った。


「痕跡は……まだ北へ続いているわ」


 セレナードが耳を澄ませた。黒髪が灯に揺れ、瞳が暗がりを探る。「音が悪い。空気が押し返されてる」


 ケイヴァンが鼻を鳴らす。「血の匂いが残ってる。……古くない」


 遠くで、砂に刻まれた紋章が一度だけ脈打った。足元の砂が、ごく僅かに沈む。岩壁の亀裂から微風が洩れ、灯が細く揺れる。アイリスたちを照らす魔法灯が一つ、音もなく消えた。暗さが一歩、近づく。


「急ぎましょう。嫌な予感がします」


 セレナードの声が、石の梁に淡く反響した。返事のように、どこか遠くで、砂がひとつ呼吸した。




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