第54話 静寂の火口
砂の音が、結界に吸われて消えた。
熱だけが残り、空気は濃い酒のように喉へ絡みつく。
赤黒いオーラが膨張し、層になって世界を歪める。対する白紫の光は、刃の細さで空間を割り、音より先に輪郭を整えた。
――衝突。
閃光とともに、砂が柱になって立ち上がる。観客席の外縁を走る膜に、蜘蛛の巣のような細いひびが走った。
壇上の司祭たちが魔符を掲げ、詠唱を一段上げる。
「防護層、増厚! ゼルハラ式結界、第二層展開!」
砂の粒が光を帯び、膜の中をゆっくりと回転する。
ゼルハラ古来の砂術――砂そのものを媒介にした防護膜だ。
観客席の足元では、淡い砂光が流れ、ひびが吸い込まれるように沈んでいった。
赤黒と白紫が、互いの輪郭を侵食しながら押し返す。
その圧だけで観客席の旗が裂け、石の外壁が軋む。
最上段。ガルマはグラスを指先で転がし、琥珀を揺らす。
「……今回は、制御できているようだな」
その横顔に影が走る。
「喰われてはいない、まだ手綱を握っている。――今のところは、な」
黒衣の男が立ち上がる。腰の十字架剣が鳴り、左手の古びた魔導書が淡い光を帯びた。
異端審問官――カイン。
本の頁がひとりでに浮かび、細かな符号が宙へ散る。燭の炎のような青白い反応が、結界の膜の内側を走った。
「……血 契」
祈りに似た低い声だけが、熱の層を静かに裂いた。
中段。白の鎧の男が腕を組む。エルガは視線だけで、砂上の速さを測っていた。
(あの“密度”……まだ上がる)
砂の中心では、二つの影が一拍遅れて重なる。
剣と剣が、音を置き去りにして交差した。
火花の代わりに、熱の粒が弾ける。砂が爆ぜ、地の奥から低音が響く。
グランの双刃は静かだった。振るたびに風が生まれ、熱が消える。音ではなく圧で切る剣。
ドーレイは息を絞り、砂を蹴る。赤黒い光が螺旋を描き、斜め上へ跳ね上がる。
衝撃が肌を焼き、血が蒸発して煙になる。
反撃――白紫の閃光。
それは“速さ”ではなく“必然”の軌道。
ドーレイは一歩下がり、砂を払うように剣を振るった。
空気が裂け、熱が弾けた。
「……やるな」
闘神の声は静寂のようだった。
「その“質量”を、どこまで保てる」
「試してみろ」
短い会話が交わされる。
次の瞬間、白紫の刃が見えなくなった。
(……速い)
金属の悲鳴はない。
斬っているのに、音がない。
砂が風圧で浮かび、赤黒の軌跡が描かれる。
衝突のたびに視界が歪み、観客の叫びが遅れて届く。
ドーレイは息を吐く。砂を蹴る。
火線のように走る斬撃。赤黒の弧。
白紫とぶつかり、砂塵が渦を巻く。
静と動、光と影――均衡が続いた。
だが、違和感。
何かが削がれている。衝突の“端”が消えている。
グランの剣が風を纏い、世界の縁を削る。
(……音を奪ってやがる)
無音の中で、ただ鼓動だけが響く。
風が止まった。
砂が宙に浮き、陽炎がねじれる。
世界が、ひと拍だけ深呼吸した。
――一瞬の無。
「……ヴォルケーノ。」
低い呟き。
白紫の光が赤黒を飲み込み、音が戻るより先に熱が襲った。
空気の層が爆ぜ、砂が溶ける。
結界が悲鳴を上げ、壇上の司祭が叫ぶ。
「強化陣、第三層へ――維持せよ!」
砂の膜が再び光り、会場全体が震えた。
だが、それでも熱は止まらない。
ヴォルケーノ――それは爆発ではなく、”燃え続ける質量”だった。
光が空を焦がし、闘技場全体が白紫に染まる。
「ぐっ……!」
ドーレイの身体が宙を舞い、砂面を滑る。
背中が焼け、手の甲が裂けた。
赤黒の光が脈打ち、血が蒸気になって散る。
視界が滲み、音が遠のく。
「立て、不死身……!」
観客のどこかから声が上がった。
砂の中で、ドーレイは膝をつき、息を吸い込む。
熱い空気が肺を裂くようだ。
それでも立つ。
剣を地に突き立て、砂を噛み、赤黒の光を再び燃やす。
グランの姿は炎の中にあった。
白紫の光が揺れず、静かに燃え続けている。
その一歩が、風のように滑らかで、死そのものの均衡を保っていた。
連撃。
刃が肩を裂き、胸を貫き、膝を砕く。
それでも倒れない。
砂に落ちた血が瞬時に蒸発する。
結界の膜が震え、光が軋む。
観客の悲鳴が遠くでこだまする。
ガルマはグラスを口に運び、視線だけで砂を数えた。
「……来る、か」
その声が、砂の呼吸に沈んだ。
結界の光が再び脈打ち、闘技場のすべてが、次の瞬間に備えるように息を止めた。
――砂の呼吸が、再び止まった。




