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第52話 忍び寄る黒、背骨からの吐息

 陽が沈みきる前、ゼルハラの街はすでに熱を帯びていた。

 闘技場アレナ・マグナの外周には屋台が並び、赤と金の布が風をはためかせる。

 香辛料の匂い、焼けた肉の煙、賭け屋の呼び声。

 明日の“メイン闘技”を控え、街全体がざわめきに包まれていた。


 「聞いたか? 明日のメイン、闘神の相手は“不死身”だってよ!」

 「まさか本当にあの闘神が戻ってくるとはな!」

 「久々に派手な血が見られるぞ――祭りだ!」


 陽は低く、砂は朱に染まっている。

 空を渡る鳥の影すら、明日の熱に怯えるように速かった。

 看板には、二つの名だけが刻まれている。

 ――不死身。

 ――闘神。

 それだけで、街の空気は充分に沸騰していた。



 古びた酒場は、昼でも薄暗かった。

 木目の擦れたカウンター、亀裂の入った鏡、半分欠けたランプシェード。

 ガルマは角の席で琥珀色の酒をストレートでやり、舌先で長い息を落とした。

 ブランデーにも似た重い香りが、喉の奥に残る。


 隣の椅子が軋む。

 影が差した。

 座ったのは大男――無言で。

 肩幅は椅子の幅を易々と越え、黒い軽鎧は光を吸う。

 結われた銀髪の房が、わずかに首の後ろで揺れた。


 「……久しぶりだな。――闘神。」

 ガルマが視線だけを寄越す。

 大男は鏡越しに彼を見返し、短く頷いた。

 「お前の煙は変わらない。」

 くぐもった声が、木樽の底から響くように低い。

 「お前の剣も、だろ。」

 「確かめに来ただけだ。」

 ガルマは口の端で笑い、もう一口、琥珀を喉に沈めた。

 「――確かめる、ね。昔から好きな言葉だ。」

 「お前もな。」

 ふたりの間に、わずかな静けさが落ちる。

 砂の向こうから、闘技場の喧騒が微かに届いた。



 不死身――ドーレイは拠点の自室で、膝を組み静かに呼吸していた。

 窓は半ば閉ざされ、薄光が床を斜めに切る。

 身体の表面に薄くオーラが張ると、肌が冷たく、次の瞬間には熱を帯びる。

 胸の内で、赤黒い脈動が律動する。


 ――抑えつけるな。

 (分かってる。)

 ――流せ。

 (流したら、喰われる。)

 ――なら、握ってみろ。形を与えろ。お前の骨で、私を縛れ。


 指先に意識を集めると、光が糸のように伸び、掌の上で輪を成した。

 輪は脈打ち、やがて薄い刃に変わる。

 ドーレイは息を吐き、ゆっくりとそれを解いた。

 (……形になる。)

 ――当然だ。お前と私はもう、呼吸を分け合っている。

 (なら、沈めるのも俺だ。)

 ――好きにしろ。だが、深みに降りる時は私を呼べ。


 赤黒の気配が、静かに胸の奥へ沈んだ。

 外の喧騒は遠く、砂の街の心臓だけが低く鼓動していた。



 ダストホロウ十五層にあるキャンプ。

 天井は高く、石の梁には古い碑文が絡みついている。

 深層調査隊の区画では、灯りを覆う布が風に鳴り、砂の混じる空気が油の匂いを攪拌していた。


 そこへ三つの影が入る。

 アイリス、セレナード、そして獣人の剣闘士。

 灰毛の鬣、琥珀色の瞳、背丈は人より頭ひとつ分大きい。

 軽鎧の肩には簡潔な刻印――リュド派。

 「ケイヴァン。ランキング三十一位。」

 調査隊の一人が囁くと、獣人は鼻を鳴らしただけで返した。

 獣の耳がわずかに動き、洞の奥の気配を拾う。


 テントの入口から、女が一人現れる。

 黒の短外套、鋭い眼差し。

 「副長、レイリア。」

 周囲の兵が頭を下げる。

 アイリス派――女性のみで編成された、ゼルハラでも特異な派閥。

 レイリア自身もダイヤモンドランク、四十八位。

 今回はカリューネの小隊とは別の小隊を率いて、二十層の北部を調査していた。


 「姉様。」

 レイリアはアイリスに向き直り、簡潔に報告する。

 「二十層は北へさらに伸び、想定よりかなり広大です。

  キャンプに適した場所は限られ、飲料水の確保も難しい。

  しっかり準備を整えないと、全滅します。」

 アイリスは灰色の瞳に静かな光を宿し、頷いた。

 「承知しているわ。けれど時間は私たちの味方ではないの。

  私はセレナードとケイヴァンと先行する。あなたたちは後発として、物資を整えて追いなさい。」

 セレナードが前に出る。銀の髪が灯に揺れた。

 「途中、十六層へ続く道に崩落帯があります。音に反応する魔物が棲んでいます――警戒を。」

 ケイヴァンが短く唸る。

 「匂いが変わっている。……砂の下で、何かが息をしてる。」

 「記録符の座標は私が引くわ。」

 アイリスは掌に符を浮かべ、薄青い光の線を編んだ。

 「合図は三。戻れないなら四。……いいわね。」

 「わかりました、姉様。」

 短い呼吸がそろい、焚火の炎が一瞬だけ高くなった。

 風が布を鳴らす。

 出発の合図は、余計な言葉もなく落ちた。



 セドランを発って二日目、ジャレドたちは次の小さなオアシスを目指していた。

 砂の起伏は緩やかに続き、空は薄く青い。

 昼は陽に焼かれ、夜は山脈からの冷気が砂を刺す。

 ――〈大陸の背骨〉。

 北へ進むほど、その影は濃くなっていく。


 野営の夜。

 風は段々と強まり、焚火の炎が低く叩かれる。

 帆布の端がばさりとめくれ、星のひとかけらが覗く。

 ハグルは鍋に蓋をかぶせ、酒袋を押さえた。

 「山の風だ。……この辺りじゃ夜鳴きって呼ぶ。」

 ランドが耳を伏せる。

 「狼か?」

 「違う。風が岩を噛む音さ。」

 ヴァルスは無言で槍を確認し、シェラは灯を少し落とす。

 ジャレドは、焚火からすこし離れた砂の縁に立った。

 風が外套を引き、砂が足首にまとわりつく。

 (……深くなる。)

 山影の黒は、空の星より静かに、しかし確かに広がっていた。

 ひとつ、低い音が鳴る。

 砂が、奥から返事をするように鳴いた。



 夜が更けても、ゼルハラは眠らない。

 闘技場の周りでは提灯が連なり、賭け札が飛び交う。

 「明日だぞ、闘神の相手が“不死身”だ!」

 「血を見るならあの二人しかいねぇ!」

 笑いと歓声。

 その中心から離れた暗がりで、ガルマは葉巻に火をつける。

 遠く、塔の影。

 明日、砂はまた熱を増す。

 砂の底は、もっと深く――。


 風が通り、火が短く揺れた。

 ゼルハラの夜は、闘技の前夜として、なめらかに黒へ沈んでいく。

 そして同じ黒が、遠い北の砂にも、ゆっくりと降りていた。

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