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第50話 砂上の呼吸、黒の影

 朝の光がまだ砂を照らす前、第二訓練場は薄い霧のような静けさに包まれていた。

 風の音もなく、砂の表面だけがかすかに波打っている。


 その中心に、ドーレイが立っていた。

 目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。

 左腕に意識を集中させると、皮膚の下で赤黒い脈動が灯り始めた。

 それは血潮とともに流れる炎。光は手首を抜け、右腕へと渡っていく。

 砂上に立つ影が揺れ、光が反射して小さな粒が跳ねた。


 ――抑えつけるな。流れに委ねろ。


 声が胸の奥をすり抜けた。

 (……委ねたら、喰われる。)

 ドーレイは歯を食いしばり、腕を下ろす。

 指先で光を断ち切るように払い、赤黒が砂に散った。


 息が白く、砂をなぞる。

 静寂だけが残った。


 「……ふぅ。」


 背後で靴の音が鳴る。

 振り返ると、ヴェラが立っていた。

 短く切った赤髪が陽を受けてきらめく。

 「朝から一人で修行? 真面目ね、不死身。」

 「制御しねぇと、暴れる。」

 「……理解できないわ。あたしなんて、出すことすらまだ難しいのに。」

 「それでいい。焦るな。焦った時が一番危ねぇ。」


 ヴェラはため息をつき、細剣を地面に突き立てる。

 「そう言われると余計に焦るのよ。アンタの見てると、できそうな気がするから。」

 「できるようになるさ。」

 ドーレイは砂を踏みしめ、再び構えを取る。

 その腕に淡い光が宿り、風がゆるく旋回した。



 ガルマの執務室には、香の煙がゆるやかに立ちのぼっていた。

 砂壁越しに陽が射し、長い影が机を横切る。

 椅子に腰を下ろしたガルマの前に、一人の女が立っていた。

 高い襟の黒衣に、凛とした立ち姿。

 その表情には焦りと冷静が同居していた。


 「……連絡が途絶えたわ。」

 「いつからだ。」

 「三日前の定時通信が最後。二十層の探索中だったの。三日に一度は報告させていたのに。」

 ガルマは眉を寄せ、低く呟く。

 「二十層は広大だからな。位置は特定できるか?」

 「通信符の記録を辿れるのは私だけよ。場所の特定なら問題ないわ。」


 窓の外で、砂風が砂壁を叩いた。


 「セレナード。」

 名を呼ばれた黒髪の女が、机の横で小さく頷く。

 「向かってくれるか。」

「はい。放ってはおけません。」

「助かる。」

 ガルマは葉巻に火をつけ、煙を吐く。

 「――アイリス。案内は任せる。」

 黒衣の女が振り返る。灰色の瞳が静かに光る。

 「ええ、任せて。位置は私が導くわ。」

 「リュドにも声をかける。あいつのところのメンバーもいるからな。

  ランキング上位から一人、出してもらう。」

 「そう。セレナードに加えてもう一人いれば、戦力としては十分ね。」


 言葉の間に、重い沈黙が落ちる。

 ガルマの視線は葉巻の火を越え、遠くの砂の光へ向けられていた。



 昼。

 ゼルハラ北門の前は喧騒に包まれていた。

 荷車の列、砂まみれの行商人、香辛料の匂い。

 陽が砂を焼き、地平の向こうが白く霞んでいる。


 門をくぐる一団の先頭に、砂を払う男の姿があった。

 ジャレド。

 外套の裾を揺らし、背の荷を下ろす。

 「……相変わらずの熱気だ。」


 背後では、マリアたちが街の光景を見上げていた。

 「これが……ゼルハラ。」

 「思ってたより大きい。」

 ジャレドは軽く頷き、振り返らずに言った。

 「ここで別れる。宿を取れ。……夜のゼルハラは荒れる。気をつけろ。」

 「あなたは?」

 「報告がある。」

 それだけ言って歩き出す。

 彼の背に、砂風が静かに流れた。



 執務室の扉を開けると、ちょうどセレナードとアイリスが出ていくところだった。

 「何かあったのか。」

 ガルマは葉巻を咥えたまま視線だけを上げた。

 「お前には関係ない。それより報告は?」

 「依頼完了。損耗なし。討伐対象一体、報告用の符は転送済み。」

 ガルマが頷く。

 短い沈黙のあと、ジャレドが口を開いた。

 「……早速だが、依頼をくれ。もっと上の。」

 「今戻ったばかりだろ。欲が出たか。」

 「試合でもいい。プラチナかダイヤモンドとやらせろ。」

 「そう死に急ぐな。」


 煙が流れ、部屋が一瞬沈黙した。


 「……ちょうどいい。外の依頼が一件ある。商人の護衛だ。」

 「行き先は。」

 「北――〈バルディア〉。ドワーフ領に最も近い街だ。」

 「……距離は?」

 「七日。途中で二つのオアシスを抜ける。危険な分、報酬は金貨四枚。」

 「悪くない。」

 「うちからはお前一人だ。お前のお気に入りの連中は試合が決まってる。」

 「ドーレイとヴェラか。」

 「本人たちはまだ知らん。……気になるのか?」

 「……今は、自分のことで手一杯だ。」


 ガルマは葉巻をくわえ直し、煙を吐く。

 「他派閥(よそ)からも数名出る。明朝、北門集合だ。」

 ジャレドは黙って踵を返した。

 扉が閉まり、葉巻の火だけが赤く揺れた。



 夕刻。

 砂街を抜ける風が冷たく変わる。

 ドーレイとセリナが拠点近くを歩いていると、通りの先にジャレドの姿が見えた。

 「おい、帰ったのか。」

 「さっきな。」

 ジャレドは歩を止め、短く息を吐く。

 「ガルマが言ってた。お前らの次の試合が決まったらしい。」

 「聞いてねぇ。」

 「俺は明日、また出る。外だ。」

 セリナが少し身を乗り出した。

 「また外の依頼ですか?」

 「ああ。北へ。」

 それだけ言い残し、ジャレドは通りの影に消えた。


 セリナが息をつく。

 「……何だか、冷たいですね。」

 「まあ、あいつにも考えることがあるんだろ。」

 ドーレイは空を仰いだ。

 沈みかけた陽が赤く、街の砂壁を染めていた。

 その赤がやがて黒に溶ける。



 翌朝。

 北門には商人たちの荷車が並び、馬の息が白く立ちのぼる。

 冷えた風が砂を巻き上げ、遠くの空を白く霞ませた。


 ジャレドは装備を整え、列の端に立つ。

 前には三つの影。

 長槍を背負った男、青光を灯す杖の女、灰毛の獣人。

 互いに言葉はない。ただ風が通り抜けていく。


 北の果て、鉄と香辛料の街――〈バルディア〉が霞の向こうにある。

 彼は一度だけ空を見上げ、低く呟いた。


 「……行くか。」


 砂が鳴き、風が応えた。

 旅の始まりを告げるように。

早いもので50話となりました!

本当にいつもありがとうございます!


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