第49話 砂影の旅路(後編)
セドランの町に戻ったのは、陽が沈む少し前だった。
西の空は朱に染まり、砂の上で影が長く伸びる。
ジャレドは馬を引きながら、三人の足取りを確かめた。
血の気を失っていた顔色も、町の灯りを見た途端にわずかに戻っている。
「……もう少しだ。宿まで持つか?」
「ええ、大丈夫。ごめんなさい、足を引っ張って」
盾を背にした女が、かすかに笑った。
宿に着くと、女将が驚きの声を上げた。
「まさか、あんた一人であのリザードを討ったのかい!?」
ジャレドは無言で頷き、負傷者を運び込むよう手を振った。
女将が湯を汲みに走り、町医が呼ばれる。
応急手当のあと、卓の上で三人が軽く頭を下げた。
「助けてくれて、本当にありがとう。あたしはマリア。盾持ちの冒険者よ」
「レアンだ。……剣は、折られたけどな」
「ティア。後方支援が得意なんです。……今日は、正直死ぬと思ってました」
ジャレドは盃の水を口に含み、短く答えた。
「礼はいい。俺はジャレド。ゼルハラの剣闘士だ」
三人が顔を見合わせた。
「剣闘士……! 闘技場の?」
「その首輪……本物だ……」
マリアが小さく息を呑んだ。
ジャレドは肩をすくめた。
「外に出るのは久しぶりだ。……ま、仕事の延長だ」
それだけ言うと、寝台の端に腰を下ろした。
腕に残った砂を払い、薄く息を吐く。
砂漠の夜は冷える――にもかかわらず、背筋に残る熱はまだ消えていなかった。
⸻
夜。
《砂喰い亭》は昼とは別の顔を見せていた。
木の看板が灯に照らされ、暖かな色を帯びている。
中は煙と香辛料の匂いが入り混じり、油灯が揺れるたびに影が壁を踊った。
客のざわめき、杯のぶつかる音、笑い声。
生きる音が満ちていた。
「今日は、あんたに奢らせてよ」
マリアが笑いながら大皿を持ってきた。
煮込んだ砂牛の頬肉に香草を散らした料理。
厚い陶器の皿から、湯気と共に肉の香ばしさが広がる。
ティアは薄い琥珀色の酒を注ぎ、レアンは半壊した剣を脇に置いていた。
「この町の酒、思ったより悪くないな」
レアンが盃を掲げ、にやりと笑う。
「“悪くない”どころか、うまいよ。……久しぶりに、命の味がする」
ティアが小さく盃を鳴らした。
ジャレドは静かに盃を傾けた。
喉を通る熱が、ようやく心臓を冷やしていく。
「それにしても、あんな魔物が出るなんて」
マリアが眉を寄せる。
「砂漠でリザードなんて、普通は見ないわ。あれ、ダンジョンの奥に棲むやつでしょ?」
「ああ。地表に出るのは、おかしい。」
ジャレドは盃を置き、低く呟いた。
「……前にも似たことがあった。砂が呼吸して、風が声に変わった。――あの時と、同じだ。」
沈黙が落ちた。
その沈黙を破るように、酒場の入口から笑い声が流れ込んでくる。
荒れた声の一団。鎧を鳴らしながら入ってきた男たち。
「おい見ろ、“狼”の連中だ」
カウンターの奥で、誰かが囁いた。
マリアが首を傾げる。
「“狼”?」
レアンが答えた。
「グレイウルフ傭兵団。最近この辺りでも名が出てる。……昔は規律のある奴らだったらしいけど、今はどうだか」
ティアが盃を下ろし、声を潜めた。
「戦場帰りで荒れてるって、聞いたことあります。略奪までしてるとか……」
その言葉に、ジャレドの目がわずかに動いた。
だが何も言わない。
盃の酒を飲み干し、淡く笑みを浮かべる。
「……戦争が終わっても、戦場を抜けられねぇ奴は多い。」
グレイウルフの一団は、他の客と談笑しながら奥の席に座った。
灯りの下、外套の肩章が金糸で縫われているのが見えた。
かつて見慣れた紋章――“灰色の狼の爪跡”。
ジャレドの瞳が、僅かに揺れた。
⸻
宴が進み、夜も更けていく。
砂喰い亭の奥で笛が鳴り、誰かが古い民謡を歌い始めた。
“砂を歩く者よ 風を背にして眠れ”
音の合間に、杯を重ねる音。
ジャレドは盃を置き、外を見た。
外では、風が砂壁を叩いている。
明日も、砂は変わらず吹くだろう。
マリアたちは少し酔いが回り、笑い声が軽く弾んでいた。
「ゼルハラには、いつ戻るの?」
ティアが問いかけた。
「明日だ。報告を済ませたらな」
「私たちもゼルハラに行く予定なの。一緒に行けたら……心強いけど」
「好きにしろ。ただし、歩調は合わせねぇぞ」
「ふふ、上等よ」
マリアの笑いに、わずかに空気が和らいだ。
その夜、宿に戻ると、外はすでに月の砂色に染まっていた。
部屋に戻ったジャレドは、斧の刃を磨きながら静かに思考を巡らせる。
――死んだ、か。
グレイウルフの初代団長、ライナー・グレイウルフ。
規律と誇りを重んじた男。
彼が死んだ今、残った“群れ”は何に従っているのか。
窓の外で風が鳴る。
遠くに狼の遠吠えのような声が、確かに聞こえた気がした。
⸻
翌朝。
空が淡く明け、宿の前に馬の息が白く立つ。
マリアたちは荷を整え、馬に跨がる。
ティアが振り向き、小さく笑った。
「昨日のお礼、ゼルハラで必ず返します」
「いらねぇよ。……死ぬな、それで十分だ」
「縁起でもないこと言わないの」
マリアが笑い、馬の手綱を引いた。
陽が昇り、砂が黄金に光る。
ジャレドは一行の後ろに立ち、静かに息を吐いた。
ゼルハラまでは、まだ二日。
だが、背を押す風の中に――かすかな呼吸を感じた。
砂の旅路は、まだ続いている。
馬の足音が遠ざかる。
朝の光が砂を割り、彼の影を長く伸ばしていった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
ブクマ・評価頂けますと励みになります!




