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第44話 黒の絶望、赤の希望

 刃が、最初に空気を切り裂いた。

 音より先に、視界が黒で裂けた。

 ジャレドの反応が半拍遅れる――その瞬間、白い光が割り込む。エルガの盾が鳴り、片手剣が黒の線を受け止めた。火花が砂丘の上で散り、風が一拍止まる。


 仮面の男は、喋らない。

 目にあたる空洞が、こちらを映さない。

黒いオーラだけが、呼吸の代わりに膨らみ、萎み、砂を浮かせる。


 「下がれ」

 エルガが短く言い、白い気配をさらに濃くした。剣が流れ、盾が斜めに沈む。最小限の動作で黒の斬撃をずらし、砂へ落としていく。

 ジャレドは歯を食いしばり、左の板金にオーラを通す。右のトマホークを軽く回し、間合いを測った。

 ヴェラは矢羽に魔符を撫で付け、指先の震えを抑える。

 セリナは胸の小瓶を握り、祈りの息を整えた。


 黒が消え、すぐに別の場所に現れる。

 斬撃が線ではなく、“空白”として迫る。

 視界の一部が――削り取られた。


 エルガの白が割り込むたび、音が戻り、風が戻る。

 砂が共鳴し、世界がわずかに息を取り戻した。

 だが白の返しは、黒に絡め取られて届かない。


 「……本当にリオルなの?」

 ヴェラの問いは、砂に吸い込まれた。

 仮面はやはり沈黙のまま、次の黒を描く。


 ジャレドが踏み出す。

 「援護する!」

 左の板で斜め下からの黒を弾き、右の斧で刃の背を撫でるように軌道をずらす。わずかに生まれた隙に、ヴェラの矢が滑り込んだ。

 矢羽の魔符がぱちりと光り、黒の縁で爆ぜる。黒はひるまず、ただ方向を変えた。砂が逆巻く。

 「セリナ!」

 「《スウィフト》――《プロテクト》!」

 温い風が足元で輪をなす。体が軽くなる。しかし黒の圧は、軽さの分だけ深く沈んでくる。


 仮面の男は、ただ“殺すため”に動いていた。

 一太刀ごとに殺意の密度が増す。砂がたわみ、音が遅れ、視界の縁が暗む。

 セリナは震える声を押し出した。

 「リオルさん! 私です、セリナです! ――聞こえますか!」

 返事はない。黒の穴が一瞬、彼女を向き、またエルガへ戻る。


 白と黒が幾度も交錯し、やがて白がわずかに押し返される。

 エルガの靴が砂に沈み、盾の輪郭が火花に揺らぐ。

 「貴様らも本気を出せ、殺られるぞ!」

 エルガの吼えに、ヴェラとジャレドが同時に踏み込む。

 ヴェラの矢が二本、三本――継ぎ目へ、関節へ。魔符が追いかけるように貼りつき、熱の筋が黒の縁に刻まれる。

 ジャレドの二斧が交差し、同じ筋を二度通す。切るではなく“剥ぐ”。黒の皮膜が一瞬だけ薄くなった。


 その刹那、黒の斬撃が視界から消えた。

 「――ッ!?」

 遅れて、背中側から圧が来る。ジャレドは反射で左腕を返し、板で受ける。火花、鈍い衝撃。肘が痺れる。

 黒は位置を変えたのではない。“間”から現れた。

 セリナの喉がからからに乾く。


 砂の上で、白が一歩下がる。

 エルガの呼吸が短くなった。白いオーラが収縮し、剣先がわずかに重く沈む。

 「……速い、いや、違う。軌道がない」


 そのとき、空気の“質”が変わった。

 歪んでいた世界が、ひと呼吸だけ整う。


 どこからともなく、青白い光が刻まれ、空中に術式が組まれる。

 低い祈りのような声。

 「――魔神の因子、顕現を確認。捕縛する」

 黒衣が風に立ち、左手の魔導書が浮遊した。

 異端審問官、カイン。


 彼の右手の剣が、音を生んだ。

 青白い斜線が黒を断ち、術式が砂を押し返す。空間のゆがみが少しだけまっすぐに戻る。

 剣が描く軌跡の中に、祈りの数式が走る。

 仮面の男の斬撃が、初めて弾かれた。

 「七星クラスのオーラか……」

 カインの眼がわずかに細まる。魔導書がページを勝手にめくり、符号が空に散った。


 均衡。

 白と黒の間に、青白が立つ。

 エルガが息を継ぐ間もなく、カインは二の剣を走らせる。魔法陣が剣閃の軌跡に沿って咲き、黒を縫い留める。

 仮面の男の肩が、初めて微かに揺れた。

 カインの剣は無駄がない。斬る直前に術式が完成し、斬った瞬間に封じが発動する。黒の呼吸が一拍だけ遅れる。


 「……想定外」

 乾いた声が、砂の端で落ちた。

 隣に立っていたフードの男が、面倒そうに頭を掻く。フードの影から、薄い笑いもしない目が覗いた。

 「あー……めんどくさい」

 フードを外す。白髪が砂の風に揺れる。金剛石の首輪に、七星の刻印。

 バルド派の七星――バアル・ペオル。


 その名が誰かの口から漏れた刹那、空気が沈む。

 バアルは外套の内側から黒い面を取り出し、軽く指で叩いた。

 コツン、と鈍い音。

 空気が震え、誰の心臓も一拍だけ止まった。

 かすかに呼吸するように、仮面が膨らむ。

 「めんどくさい」


 面を被った瞬間、質量が落ちてきた。

 砂が爆ぜ、音が消える。圧が耳を塞ぎ、世界が一枚、重くなる。

 カインの魔導書の頁が弾け、術式が歪む。

 「……!」

 次の瞬間、黒が“増えた”。


 二本の剣を握るバアルの手。その周りに、黒い剣が三本、空に生まれる。柄も鍔もない、漆黒の刃だけが反重力のように浮いた。

 五。本の。剣。

 音なき号令で、一斉に走る。


 空が裂け、砂が柱になって立ち上がる。

 カインの青白い斬撃が一本目を受け止める。二本目を術式で流す。三本目が右肩をかすめ、血が霧になった。

 四・五本目が同時に来る。エルガが盾で弾く――が、白が押される。盾の縁が悲鳴を上げ、腕が痺れたまま強張る。

 「下がれ!」

 カインの声と同時に、地が爆ぜた。術式が膨張して爆風を作り、黒の剣の角度を変える。だが軌道は消えない。バアルの刃は、空間の“弱いところ”を嗅ぎ分けて曲がる。


 ジャレドは歯を食いしばり、左の板で黒を滑らせる。手が痺れ、骨が震える。右の斧を差し込み、角度を殺す――が、二撃目が即座に重なる。板越しに圧が貫き、肺から空気が抜けた。

 ヴェラの矢が黒の軌跡に割り込む。魔符が弾け、ひとつの剣が薄くなる。だが残りが遠慮なく突き進んでくる。

 セリナの祈りが間に合わない。


 エルガの白が、初めて大きく揺れた。

 一撃。盾が鳴り、体が半身で回る。

 二撃。白が剥がれ、胸に黒い線が走る。

 血が、白に染みた。

 三撃目――エルガが、吹き飛んだ。


 砂に背中を打ちつけ、息が止まる。白い光がくぐもり、剣先が砂にめり込んだ。


 「エルガ!」

 ヴェラの叫びと同時に、四本目の刃がカインの脇腹を掠める。魔導書が警告の光を走らせ、封印が起動。カインは片膝をついた。

 「……なるほど。仮面の質が違う」

 血の味を噛み殺しながら、彼は立ち上がる。だが黒は待たない。


 黒の剣の向きが変わる。

 狙いが――セリナに向いた。


 「――ッ!」

 空気が凝固した。

 時間が、膝の高さで止まるようだった。

 セリナの指先が祈りの印を結ぼうとして、途中で凍る。

 光を呼ぶ声より早く、死が来る。


 ジャレドの足が、砂を蹴った。

 「間に合え……ッ!」

 左腕の板金が軋む。骨が悲鳴を上げる。

 肺が焼けるほどに息を吸い、全身で“盾”になろうとする。

 “砂を噛んどけ”――いつか言った言葉が、今度は自分に返ってきた。


 ヴェラは何も考えなかった。

 矢筒を放り、ただ前へ。

 「守る」でも「戦う」でもない。ただ、間に立つという一点だけ。

 目の端でセリナの頬が震えるのが見えた。

 矢羽より細い手。震える指。

 ――この子は、まだ光を信じてる。

 その思いが、脚に力を与えた。


 時間が縮む。

 黒が来る。

 砂が跳ねる。

 光が潰れる。



 ーーー。






 衝撃音は来なかった。

 代わりに、空気が“逆流”した。


 黒い剣が、弾かれて舞い上がる。

 砂粒が逆巻き、風が巻き戻る。赤黒い脈動が、黒の軌跡に“逆らって”走った。

 砂煙の中から、ひとつの影が歩み出る。


 見慣れた背中。

 砂煙の中で眼だけが、焼けた鉄のように細く光っていた。

 赤黒いオーラが皮膚の下で脈を打ち、周囲の砂が呼吸に合わせてわずかに浮く。

 それでも、顔は静かだった。

 理性の光が、はっきりとあった。


 「……誰も、倒れるな」

 低い声が、砂の底を揺らした。

 あの名を呼ぶ声が、ようやく救いの音になった。


 ジャレドが息を吐く。

 「……不死身……」

 ヴェラの肩から力が抜ける。

 セリナの目に、涙が込み上がる。

 「……ドーレイっ!」


 赤黒い光が、漆黒に向かう。

 バアルは無表情のまま、面の下でわずかに首を傾げた。

 「あー……めんどくさい」

 指先が小さく動く。漂っていた三本の黒い剣が、音もなく並ぶ。手の二本が少し沈む。

 五本の漆黒が、赤黒い脈動と正面からぶつかる。


 風が引き裂かれ、砂丘が低く唸った。

 黒の絶望と、赤の希望が交差した瞬間――

 世界が、息を吹き返す。


ついに…!


お読みいただきありがとうございます!

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