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第41話 砂下、灯のない鼓動

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 砂漠は音を呑む。

 夜明け前の冷えがまだ残るうちに、三つの影が北へ延びた。先頭はジャレド。肩口から手首まで金属の板を重ねたまもりを左腕に巻き、右手に小ぶりの斧――いや、同じ型の斧を二本、腰で鳴らしている。

 後ろにヴェラ、最後尾にセリナ。砂丘の稜線を越えるたび、靴底の砂が一度だけ音を立て、すぐに沈黙へ戻った。


 東が白む。ダストホロウの黒い割れ目が、地平のくぼみに口を開いた。

 吐き出される風は、砂漠の冷えとは違う匂いを運ぶ――湿った鉄、苔、古い血。


 「装備、変えたのね」

 ヴェラが横目で呟く。

 ジャレドは左腕を軽く回し、金属の重みを確かめた。板を繋ぐ鋲が小さく鳴る。

 「こっちの方がしっくりくる」

 腰の斧を二本、鞘から半分だけ抜いて見せる。刃は幅広く、柄は短い。

 「押し返すより、切り落とす」

 セリナは頷き、小瓶を胸の紐に戻した。

 「なら、私が息を合わせます」


 入口の石段を降りる。朝の光は三段目で拒まれ、そこから先は洞の呼吸だけが続いた。


 第一層。

 壁の苔が淡く光り、足裏の砂が湿りを帯びる。人の往来が残した靴跡が幾層にも重なり、また途切れていた。

 ジャレドは右壁に肩を寄せ、歩幅と呼吸を合わせる合図を後ろへ送る。

 「右、右、そのまま」


 広間を一つ越え、狭い喉へ。石粉がぱらりと降る。

 セリナが囁く。「……音が多い」

 「上で崩れたか、奥で何かが動いた」

 ヴェラは弓弦を爪で一度弾き、矢筒の位置を微調整した。


 第一層の終わりは、湿った風の吹き上がりでわかる。

 吊り橋のような足場を抜けると、第二層の天蓋が押し黙って広がった。光は薄く、代わりに砂の鳴る声が強い。


 「匂いが変わりました」

 セリナが鼻先を押さえる。

 「乾いた血じゃない、殻の匂いだ」

 ジャレドが足を止めるのと、床の砂がふくらむのは同時だった。


 ――砂が割れ、黒い尾が閃く。


 サンドスコーピオン。

 甲殻が石の色を映し、砂を纏って這い上がる。尾針が三度、空を刺した。

 ヴェラが矢をつがえ、指先で小さな札を矢羽に滑らせる。魔符がきゅ、と鳴って貼り付いた。

 「右脚、二節目」

 矢が走る。乾いた破裂音。甲殻の継ぎ目で火花が弾け、蠍の体がわずかに沈んだ。

 「セリナ」

 「はい――《テンペランス》薄く。《スウィフト》を二枚」

 温い風が足首を撫で、血の巡りが一段軽くなる。視界の縁が整い、音の輪郭が鋭くなる。


 尾針がヴェラを狙って落ちる。

 ジャレドが左腕を差し出す。オーラを纏った金属の護りが甲殻とぶつかり、鈍い衝撃音が響いた。

 「持つ」

 弾いた反動のまま、右のトマホークが円を描く。刃縁で関節をなぞり、左の一撃が遅れて同じ筋を断つ。

 ――二連の軌跡が、殻の“隙”を挟み込む。

 脚が折れ、巨体が片側へ傾いだ。


 砂が唸る。別の影。

 第二のサンドスコーピオンが背後の割れ目から身を起こす。尾が二本の弧を描いた瞬間、ヴェラの二矢が重なる。

 最初の矢が継ぎ目を裂き、後の矢に貼られた魔符が遅れて燃える。熱線のような息が継ぎ目に残り、甲殻がほんの一瞬だけ軟くなる。

 「今」

 「取る」

 ジャレドが滑り込み、右の刃で腋の下を抉り、左でもう一度“同じ筋”を通す。

 甲殻がほどけ、肉が退く。砂が黒く濡れた。


 最初の一匹が尾を跳ね上げる。

 セリナが掌を掲げ、短く祈る。「――《バリア》」

 音が鈍る。尾が金属の護りに叩きつけられ、火花が散った。

 ジャレドは押し返さず、受けて流す。左腕の板が尾針をすべらせ、地へ落とす。その瞬間、右手の刃が根元を切った。

 尾が砂に落ち、蠍がのたうつ。

 ヴェラの最後の矢が眼を穿ち、動きが止まる。


 静寂。

 砂の鳴き声だけが戻る。

 ジャレドは斧の血を砂で拭い、息を吐いた。

 「悪くない」

 ヴェラが矢を一本拾い上げ、貼り付けた魔符の焦げ跡を指で弾く。

 「火力は足りる。矢は節約したいけどね」

 セリナは掌を二人の胸前にかざし、残り香の刺を抜く。

 「傷は浅いです。――行きましょう」


 第二層の出口まで、蠍の殻が砕けた匂いが続いた。

 広い回廊の影で水をひと口ずつ回し、足を進める。


 第三層。

 音の層が薄く、足音が自分のものではないみたいに遅れて返る。

 壁に白い苔が広く広がり、ところどころ黒い瘢痕が混ざっていた。

 セリナが手を伸ばしかけて、引っ込める。

 ヴェラが小さく首を振った。「触らない」

 「……はいっ」


 分岐が増える。右、右、左。

 ヴェラはマッピング用の羊皮紙に道順を細かく書き込む。

 「前回と何も変わってないわ。」

 騒ぎの気配はない。他隊の声も足も、今日は薄い。

 どこにも、痕はない。

 布切れも、血の点も、踏み荒らされた砂も。

 ――何も。


 「……いない」

 セリナが息と一緒に落とした言葉を、誰も拾わない。

 拾えば、崩れる気がした。


 第三層の終端を抜けると、空気が少し乾いた。

 四層は狭い通路が絡み合い、音の死角が多い。

 ジャレドが三・二・一と指で数え、角を切る。

 角の向こうで砂がふくらみ、黒い影が弾けた――小ぶりのサンドスコーピオン。

 ジャレドが一歩前、右の斧で甲殻を掬い上げ、左腕の板で尾をすべらせて壁に叩きつける。

 ヴェラの矢がその“今”に間に合い、継ぎ目を割る。

 セリナの《スウィフト》が遅れなく乗り、動きの重なりが一拍縮んだ。

 ――呼吸が揃う。

 刃が筋を通り、音が砂に消えた。


 四層の小間で、一度だけ腰を下ろす。

 乾肉を歯で割り、水を一口。

 ヴェラが矢束を撫でる。「矢は十分。けど、油は節約」

 「了解」

 「五層までいける?」

 ジャレドは足の芯を確かめ、頷いた。

 「いける。今日は五層に触って切る」


 最後の回廊。

 天井から垂れた黒い線が床で解けている。焦げ跡……のようでいて、熱の匂いがない。

 ジャレドは視線だけを通して、歩調を崩さず通り過ぎた。

 誰も、何も言わない。


 段差を一つ降りる。

 五層の息が額に触れた。乾いた砂の匂い、低い鳴動、遠くで重なる金属音。

 ここから先は、三人だけでは世界が広すぎる。


 「今日はここまで」

 「賛成」

 ヴェラが荷を下ろし、セリナが壁際に薄い結界を張る。《テンペランス》を弱く燻らせ、疲労の角を丸める。

 「交代で見張る。俺、先頭」

 「次、私。最後がセリナ」

 「はいっ」


 灯を落とし、呼吸だけが残る。

 遠くで、金属の澄んだ音がひとつ鳴った。

 ヴェラが顔を上げる。「……聞こえた?」

 「そんなに距離はない」

 セリナが胸の前で指を組む。

 「私達の他にも、この層に誰かいるんですね。」


 眠りは浅い。目を閉じれば砂が寄ってくる気がして、誰も深く沈まない。

 それでも夜は過ぎる。苔の光が時間を刻み、石の呼吸が途切れない。


 薄明。

 再び歩き出す前、ヴェラがジャレドの左腕を顎で示した。

 「それ、いい音するわね」

 「板の鳴きか?」

 「ええ。弾くときの音。合図に使える」

 ジャレドは金具を指で叩き、短く笑った。

 「じゃあ、合図にする」


 五層の奥へ。

 砂の声が濃くなり、道が息を変える。

 昼前には、七層――灯が集まるその場所へ、確かな足取りで。



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