第40話 砂の底へ、交錯する運命
朝が来ても、牢は静まり返っていた。
鉄格子の向こう、寝台は整えられ、食事の皿だけが冷えている。
昨夜の灯りは消えたまま。
――リオルの姿はなかった。
セリナは鍵束を持った兵士に詰め寄る。
「扉の封印は?」
「壊されちゃいません。鍵も触られた形跡はない」
「じゃあ、どうやって……」
答えは誰にもわからなかった。
冷えた空気だけが残り、石壁の隙間から砂の音が微かに流れ込む。
◇
昼過ぎ。
ヴェラとジャレドのもとにセリナが駆け込んだ。
息が荒い。
「……いません」
ジャレドが眉をひそめる。
「脱走か?」
「そんなはずないです。鎖も外れてませんし……門兵も、誰も見てない」
ヴェラが腕を組み、低く言った。
「消えた、ってことね。まるで砂に呑まれたみたいに」
三人は闘技場の裏通路を探し回った。
倉庫、訓練場、医務室、地下の市場。
それでも影ひとつ見つからない。
無所属の情報屋にも金を握らせて噂を集めたが、返ってくるのは曖昧な言葉ばかりだった。
「誰も見てねぇわけねぇだろ……」
ジャレドが拳を壁に叩きつける。
「昨日まで牢にいたんだぞ」
日が傾く。
そのとき、一人の情報屋が現れた。
顔の半分を布で隠した男が、紙切れを差し出す。
「見かけたやつがいる。北門の外、夜明け前だ」
「……どんなやつだ」
「フードを深くかぶった二人組だとよ。片方は細身で、背丈はあんたらのいう“ガルマ派の若いの”に合う」
セリナが息を呑む。
「本当ですか、それ……」
「信じるかは自由だ。けど、その二人は、外へ出た。それは間違いねぇ」
紙には“北”とだけ書かれていた。
◇
ジャレドはガルマの執務室へ向かった。
扉を乱暴に開ける。
ガルマは葉巻を指で転がし、視線を上げた。
「……来たか」
「リオルが消えた。……何か知ってるな。」
「知らねぇよ。けど――行き先は見当がつく」
「……どこだ」
ガルマは葉巻に火を点け、短く答えた。
「ダストホロウ。……あの砂の底だ」
部屋が静まり返る。
ジャレドは机に両手を突き、身を乗り出した。
「許可をくれ。すぐに追う。」
「駄目だ」
「ちっ」
「お前も知ってるだろ。今あそこは危険だ。
追えばお前も砂に喰われるだけだ」
沈黙。
葉巻の先が赤く灯り、灰がゆっくりと落ちた。
「……もう放っとけ。砂が呼んだなら、もう止められねぇ」
ジャレドは何も言わず、拳を握りしめたまま部屋を出た。
◇
夜。赤砂の盃亭。
客の笑い声もなく、風鈴だけが鳴っていた。
ヴェラは酒を揺らしながら言う。
「まさか本当に、あの子が……」
ジャレドは沈黙したまま盃を空ける。
セリナが不安げに言葉を探した。
「もし……本当にダストホロウなら、私だけでも――」
「行くつもり?」
ヴェラが横目で見やる。
「馬鹿ね。あなた一人で?私たちは許可なしじゃ、首輪が邪魔するわ」
「……でも、どうしても放っておけません」
「気持ちはわかるけど、命を捨てるのは美談じゃないわ」
ジャレドが低く呟く。
「……首輪をいじれる奴がいるって、聞いたことがある」
ヴェラが盃を置く。
「……どこで?」
「昔、聞き流しただけだ。北区の外れ。
スクラップを漁ってる変人の技師だとよ」
「その噂、案外本当かもね」
ヴェラは薄く笑った。
「行って確かめるしかないわ」
沈黙。
酒の灯りが三人の影をゆらし、壁に長く伸びた。
◇
夜更け。北区外れ。
砂と鉄の匂いが混じった路地の先、崩れかけた倉庫にかすかな灯が揺れていた。
ジャレドたちは扉を押し開ける。
中は工具と金属片で埋まり、壁一面に古い魔導紋が刻まれている。
奥の机に、背の低い老人が座っていた。
溶けかけたゴーグルを額に乗せ、油で汚れた指を止める。
「……首輪か」
老人の声は低くしゃがれていた。
「来ると思ってた。あの首輪の構造をいじりたがる奴は、だいたい同じ顔してる」
ヴェラが一歩前に出る。
「できるの?」
「壊すのは無理だ。だが……縛りを緩めることはできる」
「どのくらい?」
老人は指を鳴らした。
「五日。長くて六。
その間は“奴らの目”も届かねぇ。ただし、終われば元通りだ」
セリナが不安げに見上げる。
「……代わりに、何を?」
老人は笑った。
「一人につき金貨3枚。それと――命の保証はしねぇ」
短い沈黙。
ジャレドが頷く。
「上等だ。やってくれ」
老人はゴーグルを下ろし、機械を起動させた。
淡い光が部屋を満たし、ニ人の首輪が微かに脈動する。
鈍い金属音とともに、締めつけがほんのわずかに緩んだ気がした。
「……これで、鎖は一時的に眠る。
ただし、動くなら早い方がいい。砂は夜明けを待たねぇ」
ジャレドが息を吐く。
「助かる」
老人は手を振った。
「礼はいらん。対価は頂いとる。」
◇
同じ頃。
ガルマの執務室には、再び黒衣の影があった。
異端審問官カイン。
机の上に報告書を置きながら、穏やかに笑う。
「この一月、何も話さなかったあなたが…
一体どういう風の吹き回しでしょうか。」
「勘ぐるな。……俺も真実が知りたいだけだ」
「真実?」
カインの声は祈りのように静かだった。
「砂の底に眠るものを、あなたも“見た”のでしょう?」
ガルマは答えず、窓の外を見た。
「……あぁ。」
カインは微笑み、外套を翻した。
「では明朝、出発としましょう」
ガルマは葉巻を灰皿に押し付ける。
煙が弾ける音が、やけに大きく響いた。
「砂は、また喰い始める。
……誰の血を選ぶかは、知らねぇがな」
窓の外では、風が砂を撫でていた。
夜の街ゼルハラは、静かに呼吸を止めていた。




