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第39話 砂上の決断、崩壊と堕落

 朝の光が、砂の上で白く揺れていた。

 風は穏やかだったが、闘技場の空気は異様に重い。

 観客席のざわめきが、遠くで波のように寄せては返す。

 リオルは砂の中央に立ち、手の中の剣の重みを感じていた。

 刃は欠け、鍔には錆。握るたびに軋む音がした。


 対面に立つ男――シルバーランクの剣闘士。

 全身に刻まれた古い傷、鍛え直した筋肉。

 肩には擦り切れた布が巻かれ、子供の描いたような稚拙な模様が縫い付けられている。

 観客の誰も気づかないような小さなそれを、リオルだけが見た。


 (……生きたい理由がある人なんだ)


 それでも、今日の試合は――“殺すまで終わらない”。

 ガルマの言葉が、胸の奥で鈍く響いていた。


 角笛が鳴った。

 砂が跳ねる。

 相手が踏み出した。

 体格差、腕力、経験、すべてがリオルを上回っている。

 初撃の斬り込みが風を裂き、砂を爆ぜさせた。

 リオルは木の葉のように後方へ飛ぶ。腕が痺れる。


 (重い……けど、見える)


 再び踏み込み。

 《双律加速デュアル・テンポ》。

 意識が身体を追い抜き、世界がわずかに遅れる。

 砂の一粒が空に浮いたまま、落ちない。

 斬撃の角度、呼吸の間合い、すべてが網の目のように広がる。


 その中を、リオルだけが動いていた。


 相手の刃を受け、滑らせ、踏み込む。

 砂を払うように刃を置く――浅い傷。

 次も浅い。

 手応えはあるが、決して致命には届かない。

 相手の表情が歪む。

 「遊んでんのか、ガキがッ!」

 怒声とともに、斜め上段の一撃。

 剣と剣がぶつかり、リオルの刃が砕けた。


 (まずい……!)


 破片が頬を掠め、血の味が広がる。

 相手は息を荒げ、なおも距離を詰めてきた。

 腹に拳。視界が跳ねる。

 肺が焼けるように痛い。

 双律の加速が、もう一度、強制的に身体を引っ張った。


 視界が白く伸び、音が消える。

 砂が止まり、風が止まる。

 その静止の中で、リオルの身体だけが動いていた。


 ――首筋。


 唯一、隙がある。

 思考よりも先に腕が動いた。

 剣の欠けた刃が、男の喉に滑り込む。

 硬い感触。抵抗。

 さらに押し込む。

 骨を断たず、筋を裂きながら、刃が半ばまで埋まる。


 相手の男の目が見開かれた。

 腕がリオルの肩を掴み、爪が皮膚を裂く。

 血が吹き出し、二人の胸を染める。

 「……た、のむ……娘を……」

 声は途切れ、喉の奥で泡立つ音に変わった。


 リオルは、力を抜くことができなかった。

 剣は、まだ首に刺さったままだ。

 血が温かいのに、心が凍っていく。

 砂が静かに飲み込み、音を立てなかった。


 (何も……感じない)


 角笛が鳴った。

 歓声が、遅れて押し寄せる。

 ガルマが興行席で葉巻に火をつけ、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 リオルには、煙の匂いだけが届いた。


 ◇


 控室。

 リオルは座ったまま、指先を見つめていた。

 乾いていく血の色が、なぜか消えない。

 セリナが駆け寄る。

 「リオルさん、手を見せて!」

 光が掌を包むが、皮膚はまるで他人のもののように感じた。


 ヴェラが険しい顔で言う。

 「……これが現実よ。ここじゃ“勝つ”だけじゃ足りないの。」

 ジャレドが肩を掴み、「立て、砂を噛んどけ」と低く言った。


 その瞬間、リオルの喉から声が漏れた。

 嗚咽。息が詰まり、涙が止まらない。

 セリナが抱きしめようとするが、リオルは身を引いた。


 砂の音が、頭の中でずっと鳴っている。

 ――首を裂いた音。

――呼吸が止まる音。

――観客の歓声が波のように押し寄せて、消える音。


 (……殺した。生きるために。息をしてるのは俺だけだ)


 ◇


 数刻後。

 ガルマの執務室。

 壁際の燭台が揺れ、煙がゆらりと上に昇る。

 ガルマは机越しにリオルを見つめていた。


 「――見事だったな」

 低く、冷たい声。

 机の上には、新しい首輪が置かれている。

 「ブロンズ昇格だ。……おめでとう」


 リオルは視線を落とした。

 ガルマが続ける。

 「相手の名前、知ってるか?」

 リオルが首を振る。

 「カルスだ。妻と娘が外縁部の貧困層区画にいる。

  勝てば飯が増える。負ければ二人とも飢える。

  だから奴は、お前に斬られても足を動かした。生きようとしたんだ」


 言葉が、喉を刺した。

 呼吸が乱れ、胃の奥がねじれる。

 「……な、んで……そんな話を……」

 ガルマは葉巻に火を点け、紫煙を吐き出す。

 「現実を知っとけ。砂の上に立つってのは、そういうことだ」

 目が細められる。

 「生き残りたきゃ、全部飲み込め。罪悪感も、血も、声もな。

  それができねぇなら――潰れるだけだ」


 リオルの足元が揺れた。

 喉の奥で何かが切れる音がした。

 ガルマは煙の中から冷ややかに告げた。

 「……期待してるぜ、“双律”」


 ◇


 牢の中。

 光は薄く、壁は冷たい。

 リオルは朝から全く食事に手をつけず、ただ闇を見ていた。

 時間の感覚が消え、音だけが残る。

 砂の擦れる音。血の滴る音。

 それが延々と繰り返され、頭の中に焼き付いていた。


 ――娘を。


 声が、どこからか聞こえた気がした。

 リオルは耳を塞ぐ。

 だが音は止まらない。

 砂が壁の隙間から流れ込み、部屋の中を這う幻覚が見えた。


 その時、鉄の扉の向こうから声がした。


 「……見せてもらったよ」


 フードを被った男――バルド派の興行主、バルドだった。

 月明かりのような光が頬を照らし、口元に笑みが浮かんでいる。


 「今日のこと、全部忘れたいだろう?」


 リオルは動けない。

 ただ、目だけがその影を追う。


 バルドは掌を開いた。

 そこに、黒い仮面があった。

 滑らかな面の奥で、何かが呼吸しているように見える。


 「これを被れば、もう痛まない。

  感情も恐怖も、全部沈む。

  そればかりか、強くなれる」


 リオルの心臓が跳ねた。

 仮面の奥から、低い鼓動のような音がする。

 それが彼の鼓動と同じリズムで響いた。


 バルドが囁く。

 「さあ、全て忘れて――楽になりなさい」


 扉が静かに閉まる。

 仮面の黒い光だけが、闇の中で脈打っていた。


 ◇


 監視窓の奥、ガルマが煙を吐いた。

 葉巻の火が赤く瞬き、煙が闇に溶ける。


 「……やはり、食いつくか」

 声は乾いていた。

 「いいさ。砂が導くなら、止める理由もねぇ」


 その片眼の奥で、金の光が静かに滲んだ。


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