第38話 砂上の矛盾
朝の光が、まだ完全には地を照らしていなかった。
闘技場の第一訓練場。砂は夜露を含み、踏み込むたびにわずかに沈む。
空気は冷たく、しかし砂の奥には微かな熱が残っていた。
リオルは木剣を両手で握りしめ、黙々と振っていた。
踏み込み。引き。半歩の盗み。
砂の粒が弧を描き、空気を切る音が続く。
息を吐くたび、胸の奥が燃えるように痛い。
それでも止めなかった。
(――間を、置く)
ジャレドの声が耳に残っている。
砂と共に流せ、力をため込むな。
その教えを、ただ反復する。
ふと振り下ろした木剣の軌道が、朝の光を裂いた。
一瞬、世界が静まり返る。
それは錯覚だったのかもしれない。
だが、リオルにはその一拍が確かに感じられた。
剣が砂の呼吸と重なる――それが、“双律”の感覚だった。
「おいおい、また一人で踊ってんのか」
声が背後から落ちた。
リオルが振り返ると、第一訓練場の入り口に三人の男が立っていた。
バルド派。ブロンズの首輪が陽光を受けて鈍く光る。
顔ぶれは以前と同じ。だが、今回は誰も笑っていなかった。
「昨日はいい見世物だったらしいな」
頬に傷のある男が口の端を吊り上げる。
「殺さねぇで勝つなんて、優等生もいいとこだ。……俺らの恥になる」
リオルは木剣を下ろしたまま、黙っていた。
風が吹き抜け、砂が細かく舞う。
その静けさが、逆に挑発のように響いた。
「なんとか言えよ!」
「……試してみますか」
低く、短い言葉だった。
その声に、三人が一瞬だけ顔を見合わせる。
次の瞬間、鉄棒の音が鳴った。
「調子に乗るなよ、ガルマの犬が!」
斜めから棍が飛んでくる。ーー瞬間、世界が遅くなる。
リオルは半歩、砂を回すように滑った。
木剣が自然に動く。
重心を崩すでもなく、ただ流れのままに。
棍の腹を木剣の背で押し流す。
砂が弾ける。
返しの右腕で腹を狙った拳を避け、逆に相手の腕を掴んで肩に落とす。
砂煙が上がり、呻きが漏れた。
二人目が背後から来る。
足音が砂を割る。
振り返らず、リオルは踏み込んだ。
背後の空気の流れだけを感じ取って、腰を捻る。
木剣の柄尻が腹にめり込む。
空気が詰まり、男が折れた。
三人目が息を呑む間もなく、木剣の刃先が喉元に止まる。
ほんの一寸の距離。
リオルは目だけを動かし、静かに言った。
「もうやめましょう。無意味です」
砂に倒れた二人が呻き、残る一人は動けなかった。
朝の光が傾き、三つの影を長く伸ばした。
◇
訓練場の上階、石造りの欄干からその光景を見下ろす男がいた。
ガルマだ。
口の端に咥えた葉巻は火がつかず、ただ唇の間で上下している。
「……ほぉ」
呟きは煙より軽かった。
リオルが木剣を収め、深呼吸を一つ。
立ち去る背を、ガルマの片眼が捉える。
「これなら食いつくかもな。」
笑いとともに、火のつかない葉巻が指の間で転がった。
◇
昼過ぎ。
ガルマの執務室。
厚い石壁の隙間から差す光が、机の上の書類を照らしていた。
扉をノックし、リオルが入る。
「……失礼します。」
「来たか。座れ」
ガルマは背もたれに身を預け、指先で灰皿を弾いた。
「訓練場での騒ぎは聞いた。いや、見ていた」
リオルが息を飲む。
ガルマは笑い、葉巻を咥える。
「悪くねぇ。三人相手に何の問題もなく、勝った。昨日今日で、もう“双律”を掴みかけてやがる」
少し間を置いて、葉巻の先に火がついた。
紫煙が天井へと昇る。
「――だが、そろそろ“次”だな」
「次……?」
「昇格戦だ」
その声は低く、重かった。
「明日だ。相手はシルバー。俺の派閥の剣闘士だ」
リオルは言葉を失う。
「……同じ、ガルマ派の?」
「そうだ」
ガルマは葉巻を噛み、煙を吐いた。
「殺せ。殺すまで終わらせねぇ。今回は拒否も許さねぇ」
空気が凍りつく。
リオルの喉が鳴る。
「……なぜですか」
「試すためだ。お前に”資格”があるのかどうか、な。」
「僕は――」
「言い訳すんな」
ガルマの声が、鋭く空気を裂いた。
「ここで生き残りたきゃ、殺ってみせろ。それができなきゃ、潔く死を受け入れろ。」
リオルは拳を握った。
指の節が音を立てる。
言葉は出なかった。
ガルマはゆっくりと椅子を回し、窓の外を見た。
砂を照らす白い光が、街を包み始めている。
「明日の朝、控室で待て。――あとは、砂が決める」
◇
夜。
リオルの牢は、静まり返っていた。
石壁は夜気を吸い込み、冷たく湿っている。
寝台代わりの板に背を預け、リオルは目を閉じていた。
眠れなかった。
天井の石目を何度も数えた。
砂の上で倒れた男の呼吸。
初陣のときの観客のざわめき。
そして、ガルマの言葉。
“殺すまで終わらせねぇ”
心臓がゆっくりと音を立てる。
速くもなく、遅くもなく。
呼吸を合わせても、眠気は訪れない。
やがて、外の通路で足音がした。
松明の明かりが鉄格子の隙間から差し込み、壁の影が揺れる。
鍵の回る音。
「――起きろ、控室に行くぞ」
無表情の看守が鎖を外した。
リオルは立ち上がり、短く頷く。
冷たい通路を歩く。
足音だけが響き、壁の向こうでは他の剣闘士たちの寝息が聞こえた。
階段を上がるごとに空気が乾き、砂の匂いが強くなっていく。
控室の扉を開けると、朝の光が差し込んだ。
そこにはジャレドが立っていた。
「おい、起きてるか」
「はい」
短いやり取り。
扉の外からは闘技場の鐘の音が響いている。
リオルの目に、わずかに血走った光。
「行けるか」
「……はい」
ジャレドは頷き、肩を叩いた。
「なら行け。砂が呼んでる」
リオルはゆっくりと歩き出した。
掌の皮が硬くなっている。
剣を握る感触が、昨日よりも確かだった。
――砂は、今日も血を求めている。
鉄の扉を抜け、光の方へと向かう。
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四章ここから盛り上がっていきますので、どうぞよろしくお願いします!




