第37話 双律の目覚め
夜の名残がまだ砂に張り付いていた。
東の空が藍から乳白へほどけていく。冷えた風が、闘技場の外壁を撫でるたび、薄い砂の膜がさら、と音を立てて剥がれる。
アレナ・マグナの石の胎内は、朝一番の息を吸い込もうとしていた。
控室の鉄の扉を開けると、油と革と鉄の匂いが同時に胸に入る。
灯り取りの格子窓から射す青白い光が、壁に掛けられた木剣の影を細長く伸ばしていた。
僕は両手を握っては開き、指先の血の巡りを確かめる。心臓は静かに、しかし確かに早い。
「行けるか」
ジャレドが入ってきた。肩で軽く僕の胸を小突く。
「呼吸、忘れんな。腹で吸って、砂に吐け」
ヴェラは弓ではなく細剣を持っていた。刃を爪で弾き、澄んだ音を一度だけ確かめると、無言で顎を上げる。――見ている、という合図だ。
セリナは掌を僕の胸に触れ、短く祈った。
「朝は寒いです。体の芯に火を入れて。……《テンペランス》、薄く」
温度が一枚上がる。指の震えが引いた。
壁際の兵士が、古びた剣を一本差し出した。
鞘は擦り切れ、刃はところどころ鈍く光る。
「これが支給品だ。文句は言うな」
僕は両手で受け取った。重いが、不思議と馴染む。
――砂の重さに、近い。
遠くで角笛の試音が一度だけ鳴る。朝一番の試合を告げる合図。
僕は頷き、鉄の扉の向こう、淡い光の方へ歩き出した。
◇
昇降路を上がる。石段を打つ足裏の感触が、徐々に砂へと変わっていく。
砂の匂いに、朝の冷え、少しの鉄。観客席は半分ほどだが、朝から熱を持った視線が刺さる。
早起きの賭け師たちの低いざわめき、屋台の香草、焼いたパン、薄い酒の匂いが混じって渦を作る。
砂の海の中央に立つと、世界が一瞬だけ広かった。
空は白く、光はまだやわらかい。砂は昨夜の闘いの名残を消そうと、表面だけ新しく撫でつけられている。
それでも深いところには、血の熱が縫い目のように残っていた。
対面から現れたのは、バルド派のブロンズ。
頬に斜めの裂傷痕、肩に鉄片を縫い付けた革。
手にしたのは、刃渡りの長い片刃の斧。
男の目が血の色を欲している。
観客の一角――バルド派の旗の下から、下卑た口笛が上がる。
壇上の審査官が灰の外套を整え、印板を掲げた。
結界は張られない。下位の闘士に許される防護など、存在しない。
代わりに、砂の四隅に警備兵が立ち、静かに符札を握って見守っていた。
反対側の興行席。
ガルマが椅子に浅く腰を掛け、葉巻を指で転がしていた。
その片眼は、まだ眠っていない。
角笛が鳴った。
――砂が跳ねた。
男が、笑うより早く踏み込んだ。
斧が空気を裂き、横薙ぎ。低い。砂の粉が一緒に吐き出される。
リオルは半歩、砂を盗むように引き、肩で受け流す――が、重い。
腕が痺れ、砂の上に一歩沈む。二撃、三撃。連打。
リズムが速い。呼吸にわざと噛み合わせ、崩しに来ている。
(――速い。けど、荒い)
見える。が、身体がわずかに遅れる。
視線と筋肉の通信が、半拍ズレる。
男の唇が、釣り上がった。
「終わりだ、チビ!」
頭上。斧の腹で叩き潰す軌道。
反射でしゃがむ――間に合わない。砂の冷たさが頬に触れる瞬間。
世界が、伸びた。
刹那の間に、砂の粒がひとつひとつ光を持った。
斧の縁に付いた黒ずみ、男の喉の動き、観客席で息を止めた女の指。
ぜんぶ、ゆっくりになった。
(間に、入れ)
右足の指先が砂を掴む。踵で砂を回し、半歩分の斜め下に落ちる。
斧は頭上を通り過ぎ、男の脇腹の気配が開く。
木剣の、砂の朝。ジャレドの声が背骨の内側で響いた。
――置け。
柄を握り直す。力を流れに置く。切らない。通す。
肋の隙間を、剣の背で打ち抜いた。刃ではない。だが、肺の息をひと拍奪うには十分だった。
男の膝が、砂に沈む。
返しの斧がくる。今度は低い軌道。足元を払って、倒れたところを叩き折るつもりだ。
砂の流れが、さっきまでと逆に見えた。音が遅れてくる。
観客席のざわめきが遠く、朝の光だけが近い。
視界の端。興行席のガルマが目を細める。
片眼の奥で、何かがかすかに火を噴く。
見えない線が、リオルの体内に二本、走った。
(――やっと、芽が出やがった)
砂が跳ねた。
リオルは半身で流れ、相手の手首に剣の柄尻を叩きつける。
握りが甘くなる。斧が砂に落ちる。男の目が、初めて揺れた。
視線が絡む。ここからは、押し合いではない。息の奪い合いだ。
踏み込む。男の肩が反射で上がる。その上がり切る前、胸骨の下に刃を――いや、置く。
骨を折らない角度で。肺を潰さない深さで。衝撃だけを通す。
乾いた音。男の腰が折れる。砂に手をついた指が、震えた。
観客席から、短い息が漏れる。
朝の光が、少しだけ強くなった。
男は吼えた。拾い上げた斧を逆手に持ち、頭ではなく足を狙って突き込んでくる。
立てないように、逃げられないように。――殺しの技だ。
膝を狙う直線に、リオルは一歩だけ前に出た。
斧の腹が脛に当たる寸前、足首を返して砂に潜らせる。
ジャレドに叩き込まれた“半歩の盗み”が、朝の砂で形になる。
斧は足首のすぐ上を空気だけ切り、男の肩が前に落ちた。
そこに、置く。
肩甲骨と背骨の間、力が途切れる地点。柄の角で、短く一撃。
男の呼吸が途切れ、瞳孔がわずかに開く。砂がその体を受け止めて、音を吸った。
静寂。
角笛が、遅れて鳴った。
審査官の印板が上がる。
リオルは刃を下げたまま、男の胸の上下を見た。――動いている。殺していない。
観客席がざわめく。期待した“血”が流れないことへの不満と、それでも今の流れに見入った者たちのため息が、絡み合って砂に落ちる。
興行席。ガルマは葉巻を咥え直し、短く笑った。
「……上等だ。二つ、点いたな」
片眼の裏で、二重の環がゆっくり回転していた。
朝一番の薄い光の中で、少年の内側に芽吹いた“速度”の線――思考と身体。
名は浮かばない。だが、格は見える。
◇
医務室へ運ばれていくバルド派の男を横目に、リオルは控室へ戻った。
鉄の扉を開けると、ジャレドが無言で親指を立てる。
ヴェラは「やるじゃない」と言い、細剣を鞘に収めた。
セリナは胸の前で小さく拳を作り、息を吐いた。
「よかった……ほんとに、よかったです」
「上出来だ。」
ジャレドが肩を叩く。痛みが、遅れて来なかった。――不思議と、身体は軽い。
だが、控室の空気がゆるんだ瞬間、ガルマの使いの少年が顔を出した。
「ガルマ様がお呼びです」
◇
管理棟の執務室は、朝の光でまだ冷たかった。
窓辺に立つガルマは、葉巻に火を付けず、指でただ転がしている。
「――座れ」
リオルが腰を下ろす前に、彼は笑った。片目の皺が、浅く折れた。
「二つ、芽吹いたな」
意味がわからず、リオルは黙っていた。
「名は――見えねぇと思ったが、いや、かすかに見えるな。
……《双律加速》――思考と身体、二つの律を同時に走らせる。
名が見えにくいのも道理だ。かなり上位域のスキルだ。」
ガルマは葉巻を机に置く。
「――だが、忘れるな」
声が低くなる。
「今日の試合は“ボーナス”。次からは“興行”だ。見世物ってのは、命のやり取りを期待される。
観客は血を見たがってる。……そのとき、迷うな」
「……殺せ、と?」
「殺すか、生かすかはお前が決めろ。ただ、“選べる”のは今のうちだけだ」
その言葉に、空気が少しだけ重くなった。
ガルマは窓の外の白い空を見上げたまま、低く言う。
「続けて鍛えろ。今日の“間”を忘れるな。――それとな」
片目がわずかに細まる。
「バルド派は根に持つ。砂の上だけが戦場じゃねぇ。背中、空けすぎるな」
頷いたリオルに、ガルマは手をひらりと振った。
「行け。朝飯の続きでも食ってこい。見世物はもう済んだ」
一度頭を下げ、リオルは部屋を出た。
扉が閉まる音が静かに沈む。
しばらくの沈黙のあと、ガルマは深く息を吐いた。
火を付けていなかった葉巻にようやく火を灯し、紫煙をゆっくりと吐き出す。
「……あの速さに、“間”を持つとはな」
独り言のように呟き、口元に笑みが浮かぶ。
「才能はある。だからこそ――試す価値がある」
窓の外、白い光が砂の街を照らす。
その奥で、何かの歯車が静かに動き出した。
「さあて……喰わせてみるか。どこまで“保つ”か、見ものだな」
葉巻の火が、淡く瞬いた。
その光は、陰に沈む笑みをほんの一瞬だけ照らした。
◇
その夜、「赤砂の盃亭」は砂糖の焦げる匂いと、薄い果実酒の甘さで満ちていた。
天井から吊るされた盃が、風に微かに触れて鳴る。灯は琥珀色。客の声は低く弾んで、テーブルの上の影を短く揺らしていた。
扉をくぐると、わっと声が上がった。
「初陣!」「おめでとう!」
顔も名も知らない常連たちが、盃を持ち上げる。
リオルは戸惑いながらも頭を下げ、ヴェラとジャレドに背中を押されて奥の卓へ。
香草と羊の串。豆の煮込み。焼いた薄パン。昼間より香りが濃い。
セリナが両手で盃を持ち、目を細めた。
「ドーレイさんとは対照的な初戦でしたね」
「……対照?」
「ええ。あの方は“喰らって”進む。あなたは“置いて”進んだ。――だから、よかったですわ」
横から、涼しい声が差し込んだ。
白衣の裾を整え、エルミナが立っていた。氷の色の瞳。いつも通り、感情を泳がせない。
「初陣、見事でしたわ。無駄な血は、流さずにすむなら流さないのがよろしいですの。……観客には退屈でも、命には正しい」
「ありがとうございます」
「ただし――」
エルミナは盃を持たず、指で軽く卓を叩いた。
「殺さなかったことは、時に“借り”にもなりますの。今日の相手がどう受け取ったか。どちらに転んでも、備えなさいませ」
セリナのまなざしが、盃の縁越しに遠くを見ていた。
「……ドーレイさん、どうしてるんでしょう」
空気が一瞬だけ沈む。その隙間を、ジャレドが荒っぽく笑いで埋めた。
「あいつなら死なねぇよ。砂の下ででも、腹抱えて寝てらぁ」
ヴェラが肩をすくめる。「不死身は不死身よ。あの人はすぐ戻るわよ。面倒事を背負って」
盃が重なる音が重なり、赤砂の盃亭の夜はやわらかく続いた。
扉の外、風が砂を撫でる。ゼルハラの呼吸が、店の壁の向こうでゆっくり続いている。
卓の端で、リオルは掌を見た。朝の砂の感触が、まだ皮膚に残っている。
半歩の盗み。置く刃。伸びた時間。
――そして、ガルマが口にした名が、微かに胸の奥で脈を打つ。
《双律加速》――それは“置く剣”の呼吸を持つ、僕だけの律だった。
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