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第36話 砂に芽吹く刃

 朝の風が、砂を撫でていく。

 訓練場の砂は夜露を含み、足を踏み出すたびにわずかに沈んだ。

 灰色の空の端が、かすかに橙へとほどけていく。

 冷たい空気の中に、熱だけが残っていた。


 リオルは木剣を握りしめ、息を整えた。

 乾いた掌に、汗がにじむ。

 踏み込み、打ち下ろす。

 砂が跳ね、音が短く響いた。


「腕に力が入りすぎだ」

 声が背後から飛んだ。

 ジャレドだった。

 金の首輪が朝の光を反射し、微かに光の輪を描く。

 リオルの動きを後ろから見ながら、腕を組む。


「肩を落とせ。呼吸を合わせろ。

 剣を“振る”んじゃねぇ。流れの中に“置いていけ”」

 「……置く?」

 「そうだ。力は最後まで残すな。砂と一緒に流せ」


 ジャレドが見本を見せる。

 木剣が風を裂くように滑り、音が遅れて響く。

 軽いのに、重い――。

 ただの木剣なのに、空気が震えた。

 リオルは目を見開き、呼吸を合わせて真似をする。

 数度、失敗。

 それでも、木剣の重みが砂に溶けていく感覚を掴み始めていた。


「いいぞ。その感覚、忘れるな」

 ジャレドが笑う。

 その笑顔には、あの金の首輪に見合う自信と実績があった。

 「お前は見て覚えるタイプだ。あとは心の軸を固めろ」

 「心の、軸……」

 「そうだ。剣は心を映す鏡だ。揺れたら、そのまま折れる」


 リオルは頷き、息を吐いた。

 砂の上で二人の影が重なり、朝日がゆっくりと昇っていく。

 訓練場の外では、鐘の音が響き始めていた。


 ◇


 闘技場の地下にある食堂は、朝から熱気に包まれていた。

 厚い石壁に囲まれた空間では、鉄の鍋が唸り、肉を焼く匂いと薬草スープの香りが混ざり合う。

 天井は低く、梁に吊るされたランプの明かりが淡い橙色を放っている。

 壁には古い戦士たちの名札が飾られ、木製の長卓には剣闘士たちが群れをなしていた。

 鉄の椅子が軋み、笑い声と怒声が入り混じる。


 そのざわめきの中を縫うように、リオルは皿を手に席を探していた。


 奥の片隅に腰を下ろすと、頭上から微かな振動が伝わってくる。

 地上の観客席では、朝の整備が始まっているのだろう。

 ここは地の底にありながら、闘技場の鼓動が届く場所だった。


 スープを啜る。

 舌に広がる塩気と、薄い酸味。

 雑穀のパンは硬いが、温かかった。

 リオルはゆっくり噛みしめ、砂のざらつきを思い出していた。


(――あの人は、今どこに……)


 脳裏に浮かぶのは、不死身と呼ばれた男。

 剣を越え、死を越えて立っていた背中。

 その姿を思うたび、胸の奥で何かが焦げるように疼いた。


 ◇


 夕刻。

 闘技場の観客席では、試合後の清掃が始まっていた。

 リオルはほうきを手に、階段を黙々と掃いていた。

 砂が入り込み、石の隙間に詰まっている。

 観客の靴跡と、こぼれた酒の匂い。

 血の染みがまだ残る席もある。

 どれも、闘技場の日常だった。


 リオルと同じ最底辺のアイアンランクでも、雑務をこなす剣闘士の数は多くはなかった。

 汗が額を伝う。

 静かな時間――その均衡を、背後の笑い声が破った。


 「おいおい、まだそんな雑用やってんのかよ」

 声の主は、バルド派の男たちだった。

 首輪は赤銅色。ブロンズ中堅の実力者たちだ。

 リオルが振り向くと、三人の男が階段を降りてくる。

 中央の男は肩に鉄棍を担ぎ、頬に古傷があった。


 「この前の訓練試合、調子に乗ってたらしいな?」

 「別に……そんなつもりじゃ」

 「へぇ? “ガルマ派のチビ”が真面目ぶってもなぁ。どうせ闘技に上がれば一撃で終わりだろ」

 男たちの笑い声が響く。

 リオルはほうきを握り締めた。

 だが、反論の言葉は出なかった。

 視線を落とし、ただ耐える。


 「……なんだその目は?」

 頬の傷の男が一歩近づく。

 鉄棍が肩から外れ、砂を叩いた瞬間――


 乾いた音が響いた。

 金属の響きではない――もっと鋭く、冷たい音。

 男の腕が弾かれていた。

 そこに立っていたのは、弓を下ろした女――ヴェラだった。


 「……あんたら、暇なの?」

 彼女の声は低く、冷たかった。

 銀の首輪が、光を放っている。

 その材質の違いに、バルド派の男たちは一瞬息を飲んだ。


 「な、なんだよ……」

 「うちの派閥との抗争がお望みなら、今すぐ始められるわよ。」

 ヴェラが一歩近づくたびに、空気が張り詰める。

 視線だけで、男たちは後ずさった。

 「……ちっ、覚えてろよ」

 舌打ちとともに、三人は退散した。


 静寂が戻る。

 リオルが息を吐くと、ヴェラがこちらを見た。

 「アンタ、相変わらず面倒事を呼ぶわね」

 「……助かりました」

 「礼はいらないわ。ガルマが呼んでたわよ。今、執務室にいるはず」

 「ガルマ様が?」

 「ええ。内容は知らないわ。」


 ヴェラは弓を肩に担ぎ直し、振り向いた。

 「行きなさい。汚れた砂は、早く払う方が身のためよ」

 その銀の首輪が、夕陽を受けて眩しく光った。


 ◇


 アレナ・マグナの管理棟。

 窓辺には赤い夕日が差し込み、机の上の書類を染めていた。

 ガルマは葉巻を転がしながら、窓の外を眺めている。

 リオルが扉を開けると、視線だけで彼を促した。


 「座れ。……訓練の調子はどうだ?」

 「はい。ジャレドさんに、毎日見ていただいてます」

 「……目の色が変わってきたな」

 ガルマが灰を落とす。

 煙の奥の眼差しは、どこか鋭いが温かかった。


 「――で、本題だ」

 書類の束を一枚取り上げ、机に置く。

 「バルド派から“指名試合”の申請が来てる。

  お前を名指しだ。初試合だな」


 リオルは短く息を呑んだ。

 その手がわずかに震える。


 「……受けても、いいんですか」

 「断ることもできる」

 ガルマは煙を吐き、低く続けた。

 「この世界で一番怖ぇのは、選ばされることじゃねぇ。

  “選ばないこと”だ。お前はどうする?」


 リオルはゆっくりと顔を上げた。

 思い出す。

 砂の上に立っていた、不死身の背中。

 血を吐いても、倒れず、立ち続けた男。


 「……やります」

 「理由は?」

 「逃げたくありません。自分で選びたいんです」


 ガルマの片目が、一瞬淡く光ったように感じた。

 「そう言うと思った。三日後、初陣だ。

  相手は格上だ。死ぬ気で訓練しろ。」


 リオルは深く頷いた。

 外の風が窓を鳴らし、砂が流れていく。

 その音は、まるで世界が息を吸い込む音のようだった。


 胸の奥で、小さく鼓動が鳴る。

 砂上の影が、初めて“闘士”として息をし始めていた。



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