第33話 沈黙の誓い
風が、止まっていた。
歌も、歓声も、もうどこにもなかった。
砂の匂いだけが、まだ残っている。
あの赤黒い光も、闘技場の空から完全に消えていた。
セレナードの声が途切れたあと、
世界はまるで呼吸を忘れたように静まり返っていた。
俺は仰向けに倒れたまま、空を見ていた。
金の砂が落ち、頬を撫でる。
視界の端で、白い外套が揺れた。
セレナードが双剣を収め、静かに背を向ける。
彼女は何も言わなかった。
ただ一度だけ振り返り、唇がわずかに動いた。
その声は、風にも届かない。
――ごめんなさい。
そう言ったように見えた。
砂が呼吸を取り戻し始める。
赤黒い渦は消え、熱がゆっくりと地に還る。
俺の体からも、すべての力が抜けていった。
――歌。
それだけが、確かに耳に残っていた。
世界が暗く沈む前、最後に見たのは
金色の砂に滲む血と、深紅の瞳だった。
◇
歓声が戻ったのは、どれほど経ってからだったろう。
だがそれは歓喜ではない。
恐れと混乱と、言葉にならないざわめきだった。
立ち上がる者もいれば、祈りの印を切る者もいた。
目を覆い、吐き気をこらえる者もいる。
誰もが、見てはいけないものを見た顔をしていた。
砂の上で何かが“生きていた”のを、誰もが知っていた。
審査官が砂の中央に立ち、符光を掲げる。
灰の外套、無派閥の印。
杖の先で封蝋を押し、淡々と読み上げる。
「上申案件――禁忌能力疑義。
低位剣闘士による高位打破、および魔人化による魂喰い現象を確認。
帝都審問局へ報告を行う」
観客のどよめきが遠くへ吸い込まれていく。
ガルマは壇上から短く手を挙げた。
「本日の闘技は、ここまでだ」
その声に、場内がひとつ息を呑む。
誰も歓声を上げなかった。
ただ、砂を踏む足音だけが闘技場を満たしていた。
◇
夜。
医療棟の一室。
セリナが灯火の下で両手をかざす。
「《ヒーリングライト》……」
温かい光が全身を包み込む。
ドーレイの胸がわずかに上下し、
焼けた皮膚の下で鼓動が戻っていく。
ジャレドは黙ってそれを見ていた。
握り締めた拳を開いたとき、指先が震えていた。
彼の脳裏には、砂上で咆哮したドーレイの姿が焼きついて離れない。
「……あれが、本当の奴なのか」
小さな呟きは灯火に吸い込まれた。
ヴェラは包帯を巻き直しながら息をついた。
「……あれでも、まだ“人間”なのね」
笑おうとした唇が、うまく動かなかった。
セリナは答えなかった。
ただ、光の流れを絶やさぬよう祈り続けた。
◇
どれほど経っただろう。
セリナが気づいた時には、
ベッドの上には誰の姿もなかった。
扉も窓も閉ざされている。
ただ、床に砂の粒が一筋――
外の風へと続くように散らばっていた。
「……ドーレイ?」
セリナの声は、空気に溶けた。
足元には、かすかに焦げた匂い。
そして――葉巻の煙の残り香。
◇
執務室。
ガルマは葉巻の火を押し潰し、窓の外を見下ろしていた。
その隣に、セレナードが立っている。
「帝都は動きます」
「……動かせ」
ガルマの声は低い。
「どうせ遅かれ早かれ、火は点く」
セレナードは瞳を伏せる。
「彼が“喰う”ものが、砂だけで終わればいいのですが」
その言葉を残し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ガルマは煙を吐き、夜空の奥を見上げながら呟いた。
「……すでに手は打ってある」
机の上には二通の書簡が置かれていた。
一通は帝都審問局宛て。
もう一通は封をされていない。
宛名には、砂の外縁――〈ダストホロウ深層調査隊〉の文字。
ガルマはその封を指で軽く叩く。
「……せいぜい、息を繋いでみせろ。不死身」
◇
路地の影。
ゼルハラの夜は、風ひとつ立たない。
灰の外套を着た男が封蝋の書簡を差し出す。
「帝都宛て、至急案件にございます」
長衣の人物がそれを受け取り、
砂風の奥へと歩み去る。
――封蝋が、ひとりでに割れる音がした。
その音を背に、もう一つの影が別の封筒を懐にしまう。
闇の中で、葉巻の火がひとつ灯った。
砂街の外れで、
ひとつの風がゆっくりと息を吹き返した。
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第三章《砂に沈む誓い》 完
第三章までお読みいただき、本当にありがとうございます。
初投稿ということもあり、読み返すたびに自分の書いた文章の拙さに恥ずかしくなりますが、ここまで読んで頂けた方がいてくださることに本当に感謝しています。
第四章以降も頑張って執筆して参ります、引き続き拙い文章にはなりますが、応援していただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。




