第32話 喰声(くらいごえ)
風が、逆に流れた。
観客の歓声が、一拍遅れて砂の奥へ吸い込まれる。
俺の全身から噴き出した赤黒い光が、闘技場の空を染めた。
オーラが空気を喰っていた。
ザイロスの金色の首輪が、低く軋む音を立てる。
目の前で、獣が笑った。
「やっと“目が覚めた”か、不死身……いや、化け物!」
ザイロスが先に動いた。
剣が閃く。白い光が砂を切る。
だがその軌跡が俺の皮膚に触れる前に、折れた。
刃の半分が粉々に砕け、砂へ溶けていく。
ザイロスの顔がわずかに揺れる。
「……は?」
砂の音が一瞬、止まった。
俺は言葉を発しなかった。
喉が“声”を忘れている。
代わりに、胸の奥から低い唸りが漏れた。
それは呼吸でも、怒号でもない。
――“喰う声”、喰声だった。
踏み込む。
足裏の砂が爆ぜ、地面が沈む。
ザイロスの体が反射的に跳ねる。
だが、遅い。
俺の腕が、彼の肩を掴んだ。
そのまま、地へ叩きつける。
衝撃で砂が噴き上がり、観客席の最前列が悲鳴を上げた。
ザイロスが即座に転がり、距離を取る。
その動きの速さは、やはり常人ではない。
だが――俺の目には、遅く見えた。
世界がゆっくり動く。
空気が伸び、砂の粒が一つひとつ光っている。
赤黒い膜の向こうで、誰かが囁く。
――喰え。
――喰えば、お前は残る。
「はは……なるほどな。やっぱり、そういう“力”か!」
ザイロスの灰眼が狂気に染まる。
折れた剣を投げ捨て、背から短剣を抜く。
剣筋が乱れ、呼吸が獣と化す。
砂の上に、互いの影がぶつかった。
金属の悲鳴が重なり、観客のざわめきが途切れる。
誰もが見ていた。
――人が、砂の獣に変わる瞬間を。
◇
観客席上段。
ガルマが椅子から半身を起こした。
「やりやがったか……!」
隣でセレナードが目を細める。
深紅の瞳に反射するのは、下界の赤黒い渦。
「……あの色、見覚えがあります。帝都の異端書に記されていた“血契”ですね」
「血契か……」
ガルマが歯噛みする。
「帝国が封じた禁忌だ。血を触媒にして、魂ごと魔神に喰わせるやつだ。俺の"眼"でも見えなかったわけだ。
……まさか、ここまでのものとはな」
「このまま放置すれば、ただでは済みません」
「止まるかよ。あれはもう、“人”じゃねぇ」
砂の上では、戦いが続いていた。
ザイロスの斬撃が赤黒いオーラに呑まれ、砕ける。
そのたびに、刃から黒い粒が弾け、地を焦がした。
剣が通らない。
それどころか、喰われている。
「っははははは! 上等だ! 殺し合いだ、これが戦いだろうが!」
ザイロスが笑い、叫ぶ。
その声に応じるように、俺の奥でまた“それ”が笑った。
――喰わせろ。もっと。もっと。
目の前のザイロスが霞む。
足が勝手に動く。
拳が、腕が、刃が、誰のものでもなくなっていく。
一撃。
ザイロスの左腕が吹き飛ぶ。
血が噴き、砂が赤く濡れた。
観客の歓声が恐怖に変わる。
審査官が通信符を叩き、緊急結界を強化する。
それでも止まらない。
俺の胸の中の音が、もう“心臓”ではなかった。
――砂の鼓動。
――世界の呼吸。
それと同調して、赤黒いオーラが脈打つ。
「こいよ、化け物……!」
ザイロスが右手だけで剣を構える。
折れた刃。欠けた歯。
それでもまだ、戦士の眼をしていた。
彼の首輪が、亀裂の音を立てて裂ける。
光が溢れ、オーラが金色から黒へ反転した。
――金が、黒に呑まれる音。
ザイロスが吼える。
俺も吠える。
空気が割れ、闘技場が震えた。
血と砂が絡み、音が消える。
世界の音が、喰われている。
◇
地上の風が止んだ。
アレナ・マグナの上空に、赤黒い柱が立つ。
ゼルハラ全域から見えるほどの巨大な“呼吸”。
神殿の鐘が勝手に鳴り出し、帝都への連絡符が次々と発光する。
ガルマは低く呟いた。
「……やっぱり、黙ってられねぇだろうな。帝都の連中」
セレナードの瞳が細く光る。
「ええ。審問官が動くでしょう。……ですが、まだ私が止められます」
彼女は立ち上がる。
外套を脱ぎ、腰の双剣を取った。
指先が宙でひとつの音符を描く。
「終わらせるのは、私の“声”です」
ガルマが煙草を咥えたまま笑う。
「やれるもんならやってみろ、“血の歌姫”」
◇
砂上。
ザイロスの体が、もはや人の形を留めていなかった。
筋肉の隙間から黒い蒸気が噴き、皮膚が砂化している。
それでも剣を振るう。
俺は、それを正面から受けた。
ぶつかり合うたびに、砂が喰い合う。
耳の奥で、“血剣”が囁く。
――喰い尽くせ。
――その先にあるのは自由だ。
――鎖も、首輪も、全部喰ってやれ。
脳が熱を超えて冷えていく。
ザイロスの動きが遅く見えた。
一撃。
胸を抉り、心臓を握り潰す。
金色の光が散り、ザイロスの体が砂へ崩れた。
沈黙。
観客は声を失っていた。
俺の掌の中で、刃が脈を打っている。
まだ喰わせろ、と。
そのとき、風が変わった。
低く、柔らかく。
赤黒い空の向こうから、旋律が流れてきた。
――歌。
俺の足が止まる。
耳ではなく、骨で聴くような音。
遠い記憶の奥で、誰かが子守唄を歌っていた。
声が砂を撫で、血の熱を鎮めていく。
セレナードだった。
観客席のざわめきが消えた。
血に染まった砂を、ひとつの声が包み込む。
上段の欄干に立ち、双剣を交差させて歌っていた。
その声は光そのもの。
旋律に触れた砂が穏やかに波打ち、
俺の胸の赤黒い光が、一拍遅れて呼吸を止めた。
刃が鳴く。
――まだ……。
しかし声は届かない。
砂の上に、俺は膝をついた。
世界が静かに、呼吸を取り戻す。
◇
血と砂の上で、ザイロスの残骸が風に崩れていく。
俺の肩の上に、セレナードの影が落ちた。
「終わりましたね」
その声は、祈りのように小さかった。
俺は答えようとした。だが、喉から出たのは掠れた音。
セレナードが短く目を閉じた。
「……今は眠りなさい」
視界が白に溶けていく。
砂の呼吸が、再び静かに流れ始めた。
――世界は、まだ息をしている。




