第30話 決戦の朝、血砂の音
夜明け前の空気は、鉄の味がした。
砂はまだ眠っている。闘技場の地下通路を抜け、控室の石壁を撫でる風が、かすかに湿っているのがわかった。
空のどこかで、見えない鳥が鳴いた。夜と朝の境を裂くような短い声。
木の扉を押すと、油と革の匂い。明かり取りの小窓から、青白い光が差し込んでいる。
そこにいたのは、三人。
息遣いのひとつまでが、砂よりも重く響く空間だった。
ジャレドは黙って丸盾を膝に乗せ、革のベルトを一つ詰め直していた。
穴の位置が微妙にずれているのを見て、俺は思わず笑う。
「まだ調整してるのか」
「盾は顔と同じだ。緩めたら死ぬ」
短く返す声に、緊張の影はない。
むしろ、張りつめた糸がちょうど良く鳴っているようだった。
彼の呼吸は一定で、吸って、止めて、吐く。
オーラがわずかに盾へと流れ、淡く青い輪郭を作っていた。
ヴェラは鏡の前で、細剣の棟を弾いた。カン、と澄んだ音。
短弓の弦を指先でなぞり、矢羽根を一本ずつ整える。
「風が西から流れてる。砂が舞うなら、左から」
「確認済みだ」
「ならいい」
彼女はいつも通り、言葉を切り捨てるように短い。
けれど声の奥には、確かな熱がある。
彼女の影が壁に長く伸び、光がその輪郭を震わせていた。
俺は黒鉄のナイフを布で拭い、刃返りを砥石で落とした。
細い光が刃の面を這うたび、胸の奥が静かに疼く。
柄を巻き直すとき、手首の皮膚がわずかに熱を持つ。
……奥で、何かが呼吸していた。
血の奥から「喰わせろ」という声が、微かに脈と重なる。
深く息を吸い、喉の奥でその囁きを押し潰す。
「セリナは?」
「リオルの治療。夜通しだ」
「そうか」
リオルはまだ意識が戻らないらしい。セリナのことだ、朝まで付きっきりで手を離さないだろう。
――今日、彼女のいない控室は、少しだけ静かだった。
聞こえるのは金具の擦れる音と、誰かの心臓の鼓動。
そのすべてが、戦いの音だった。
外から、金属を打つ音がした。扉の向こうで衛兵が「十分前」と告げる。
俺たちは立ち上がり、それぞれの武具を肩に取った。
革の擦れる音。金具の鳴る音。それだけが、三人の会話だった。
◇
昇降路を上がると、陽光が一気に押し寄せた。
アレナ・マグナ。ゼルハラの中心、血と歓声の心臓。
すでに満員の観客席が、砂の海を取り囲んでいた。
青、赤、黒の旗。歓声は波のように重なり、胸骨を震わせる。
焼けた砂の匂いが立ち昇り、遠くの屋台の香辛料まで混じっている。
空気が熱い――闘技場全体が一つの巨大な肺のように、息をしていた。
対面の通路から、三つの影が現れた。
砂色の外套。中央の男は、背丈より長い剣を肩に乗せている。
左顔に焼け爛れた痕。金色の首輪。
ザイロス。バルド派の猟犬。
その歩みだけで、空気が一段沈んだ。
目が笑っていない。瞳の奥に、燃え残った灰のような光。
背後に控える二人のブロンズは、影のように従っていた。
片方は鉈を持った膂力型。筋繊維が鎧の隙間から脈打っている。
もう片方は灰緑の外套を羽織り、杖先の魔石を指で撫でていた。
その魔石が呼吸のたびに淡く光を放つ。
審査官が壇上で印板を掲げ、灰色の外套の裾を整える。
無表情な瞳だけが、何かを記録するように砂を見つめていた。
ガルマは興行席から無言で頷く。
観客の熱気が最高潮に達し、結界の膜が淡く光る。
「血砂戦、開幕――!」
角笛が鳴る。砂が跳ねる。
◇
最初に動いたのは、ジャレドだった。
盾を正面に突き出し、剣を低く構える。
ザイロスは笑ったまま、一歩。
踏み込みの瞬間、砂が抉れた。
衝突。
剣と盾の間に、雷みたいな音が走る。
砂が爆ぜ、観客の悲鳴が風に混ざった。
ジャレドのオーラが盾に薄く流れ、衝撃を殺す。
以前より制御が効いている。だが、押し返せない。
ザイロスの一撃は、エルガ以上だった。
圧倒的な密度。
空間が「殴られる」音がする。
俺は半歩で角度を盗み、ザイロスの死角へ滑る。
ナイフを横に走らせた瞬間、剣がそれを受けた。
金属音。火花。
手首が痺れる。
打ち合うたびに、こっちの筋肉が削れていくみたいだ。
「この程度か、ブロンズ」
声が近い。
目の前に立つ“暴力”そのものが、笑っていた。
その笑みは快楽でも怒りでもない。
ただ、殺しを愉しむ“本能”の顔だった。
横でヴェラが動いた。
矢が二本、一直線に飛ぶ。
ザイロスはそれを見もしない。後方のブロンズ二人が防ぐ。
ヴェラは一対二。
細剣と短弓を交互に使い、舞うように砂を蹴る。
矢羽根が一閃ごとに光を残し、風の跡が砂に刻まれる。
押されていない。むしろ、二人を翻弄していた。
ジャレドが低く唸る。「ヴェラ、下がれ!」
瞬間、俺は理解した。
スイッチ。
ヴェラが魔法使い側へ走り、矢を放つ。
その視線が一瞬だけザイロスを外した瞬間、
ジャレドが前衛のブロンズへ踏み込む。
「《インパクト・ライン》!」
盾と剣が同時に閃いた。
衝撃波が空気を割り、鉈を持った男の胸骨が弾ける。
砂と血が同時に舞った。
観客が沸く。
その熱の中心で、ザイロスはただ口角を上げた。
「……おもしれぇことするじゃねぇか」
その声に、空気がもう一段沈む。
熱が、闘志に変わる前に、冷たい殺意にすり替わる。
俺は刃を握り直した。
次に来るのは、たぶん嵐だ。




