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第29話 誓いの残骸

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 砂の音が、途絶えた。


 地上へ続く螺旋通路を抜けた瞬間、五層の熱が嘘みたいに消えた。

 夜明けの風は冷たく、砂丘の縁を撫でるたび、肌の焦げた感覚が薄れていく。

 振り返れば、ダストホロウの穴は白んだ空に沈み、遠くの砂面で薄い靄を吐いていた。

 呼吸のように、ゆっくりと。


「……止まってませんね」


 セリナが風を見上げた。

 淡い朝光に頬を染めながら、その声は確信めいていた。


「砂が、まだ“息”をしてます」


「気のせいならいいがな」

 ジャレドが肩の革を締め直す。壊れた盾の残骸を背負ったまま、短く息を吐いた。

 ヴェラは黙って頷き、矢束を整える。

 俺は腰の袋を握った。あの中には、銀の鷹の徽章──行方不明の冒険者たちの証。


「帰ろう。地上の風が恋しい」


 誰も異論を挟まなかった。

 風は東から吹き、砂丘の稜線に初陽が差した。


 ◇


 アレナ・マグナ管理棟の執務室。

 書類と硝煙の匂いが混じり、窓の外では昼の喧騒が遠く響いていた。


 机の奥で、ガルマが報告書をめくる。

 その向かいには、イストリア商会の責任者──バシル・ドレイスが立っていた。

 灰色の上着に砂の汚れが染みている。現場上がりの商人特有の、金よりも“結果”を重んじる目。


「五層で“砂竜”……それも生体のまま出現か。冗談だろ」


 ガルマの声に、部屋の空気が重く沈む。


「報告だ。冗談じゃない」

 俺は徽章を机に置く。銀の鷹が刻まれた小さな金属片。


 バシルはそれを手に取り、親指で表面をなぞった。

「……確かにウチのだ。失踪した採取班のものに間違いない。

 だが“砂哭草”は、やはりガセだったか。報告では芽どころか根しかなかったと」


「誰かが育てようとしてた。けど、あれは植物じゃなかった。“呼吸の一部”だ」


 バシルは小さく鼻を鳴らす。

「砂が息をして、草が喋る……ロマンだな。だが俺たち商人には“売れるかどうか”しか関係ねぇ。

 報告は受け取った。報酬は明日、商会から支払わせる」


 ガルマが腕を組む。

「受け取り窓口はこっちで処理する。面倒は起こすな」


「分かってる。……死んだ分は減る、それだけの話だ」


 言い残して、バシルは徽章を懐にしまい、執務室を後にした。


 葉巻の火が弾ける音だけが残る。

 ガルマは煙を一度吸い込み、低く吐き出した。

「……お前の言う通り報告すりゃ、誰かが飲まれる。

 だが掘り返せば、今度は俺たちが沈む。分かるな」


「分かってる。でも、知らないふりはできない」


 ガルマは返事をせず、紫煙を見送った。

 天井の明かりに照らされ、煙は静かに形を失っていく。


 ◇


 執務室を出ると、廊下の端に三人が待っていた。

 ヴェラが壁にもたれ、矢を一本ずつ指で確かめている。

 セリナは小声で祈りを口にしており、ジャレドは腕を組んだまま無言。


「どうだった?」

 ヴェラが問う。


「依頼は完了扱い。報酬は明日、商会から。……それだけだ」


「砂竜の件は?」

「報告には載せない。ガルマの判断だ」


 短い沈黙が流れる。

 誰も納得はしていなかった。

 遠くで鐘が鳴り、街の喧騒が夕刻の色を帯びていく。


「地上も息をしてる気がします」

 セリナがぽつりと言った。

「砂の下と同じ……どこかで、同じ鼓動が」


「地上も一緒よ」

 ヴェラが肩をすくめる。

「人の欲で息をしてるだけ。砂の呼吸と変わらないわ」


 俺は空を見上げた。

 薄い雲の間を、陽が滲むように揺れていた。


 ◇


 夕刻。

 闘技場の地下、アイアン区画の通路で怒号が上がった。


「──リオルがやられた!」


 胸が一瞬、固まる。

 走る。砂を蹴って、灯の方へ。

 鉄柵の影の中に、細い影が倒れていた。血の匂い。喉から浅い息。

 リオルだった。

 胸の下に刃の跡。体が冷え、瞳が震えている。


「……セリナ!」


 駆け寄ったセリナが、すぐに手をかざす。

「《ヒーリングライト》!」

 白光が流れ、血が一時的に止まる。

 だが傷は深い。骨の間に金属片が刺さっている。


「もう一人! 医療班を!」


 階段の方から、早足の音。

 白衣の裾を揺らして現れたのは、長い外套の女だった。

 氷のような瞳に、淡い青光。

 セリナがすぐに名を呼ぶ。


「エルミナさん!」


「状況は?」

「出血が止まりません!」


「……了解ですわ」

 エルミナ・クレインは膝をつき、掌をかざす。

 青白い光が血を凍らせるように包み込んだ。

「温かい治癒では間に合いませんわ。冷やして“留める”のですわ」


「そんな、冷やしたら……!」

「生かすためですの。貴女の“炎”では焼けますわよ」


 セリナは一瞬息を呑み、黙って頷いた。

 二人の光が交差し、白と青の閃光が夜気を裂く。

 血が収まり、呼吸がかすかに戻る。


 リオルの唇が微かに動いた。

「……ドーレイさん、火傷痕の男に……気をつけて」

 そこで、意識が落ちた。


「火傷痕……」

 ヴェラの声がかすれる。

 ジャレドが静かに答える。

「……ザイロスだ」


 ◇


 夜。

 俺は再び管理棟へ向かっていた。

 闘技場の灯が遠くで明滅している。

 拳の中で、指が軋んでいた。


 扉を開けると、ガルマがまだ執務室にいた。

 煙草の煙が残り香のように漂っている。


「また来たか、不死身」

 ガルマが顔を上げる。


「……ザイロスに、決闘を申し込みたい」


 その言葉に、空気が一瞬止まった。


 ガルマは煙を吐き、ゆっくりと立ち上がる。

「理由は聞かねぇ。だがタイミングがいい。バルド派も調子に乗ってる。

 ――おもしれぇ。なら明日すぐに決闘だ。バルドと話をつける」


「……俺ひとりでやる」


 ガルマは笑った。

「無茶言うな。奴らは三人組だ。試合形式は“血砂戦”――三対三だ。

 相手を殺すまで続く。いいか?」


「構わねぇ」


「……よし。好きに暴れてこい、不死身」


 その声には、いつもの興行主の笑みが戻っていた。


 ◇


 扉が閉まると同時に、別の声が部屋の奥から響いた。

「随分、火をつけましたね」


 ガルマが振り向く。

 窓辺に立っていたのは、漆黒の髪と深紅の瞳を持つ女――セレナードだった。

 月光が髪に淡く反射し、背後の硝子に影を落とす。

 その姿は、闘技場の観客が“血の歌姫”と呼ぶ所以そのものだった。


「見てたか」

「ええ。……不死身が負ければ、バルド派はますます勢いづきます。

 勝てば、監察官の報告が帝都へ届く。――場合によっては帝都からの介入もあるかもしれません」


「どのみち、どっかで爆ぜる火種だった」

 ガルマは灰を落とす。

「俺は見届ける。ゼルハラの“呼吸”がどこまで持つか、な」


 セレナードの深紅の瞳が、わずかに揺れた。

「――この街も、まだ息をしているのですね」


 ガルマは笑みを浮かべる。

「死んだふりしてるだけだ」


 ◇


 夜更け。

 俺は一人、訓練場の端に立っていた。

 胸の奥で鼓動が鳴る。

 静かに、しかし確実に。


「血の下で誓ったんだ……次は、喰われない」


 拳を握る。

 赤黒いオーラが、掌から立ちのぼった。

 空気がざらつき、体の芯が熱を帯びる。

 その鼓動に合わせて、声なき囁きが響いた。


 ──喰わせろ。


 喉の奥が熱くなる。

 砂の夜が揺れ、遠くで風が低く唸った。


 砂は、まだ息をしていた。

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