第22話 砂街の金貨、もうひとつの影
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朝のゼルハラは、砂と匂いの層でできている。焼きパンの香りの上に、駱駝の汗、香辛料、油、鉄のにおいが薄く重なる。布張りの天蓋が路地に影を作り、小さな鈴が風に鳴った。
「帝国銀行・ゼルハラ支部」は、闘技場の正門から中央広場へ抜けた先にある。受付窓口の一つは“剣闘士専用”で、背後に魔法銀の柱が立っていた。柱の冠には、首輪の“識別紋”を読むための水晶が嵌っている。
列に並び、順番が来る。窓口の女書記が視線で合図。
「首輪をこちらへ。残高確認の後、預け入れ枚数を申告してください」
喉元の輪は、鉄から鈍い銅色に変わっていた。表面の《タフネス》は相変わらず冴えない。だが水晶に近づけると、輪の内側の符が脈打ち、柱の面に数字が浮かぶ。
──預かり:銀貨三十二/金貨六。
銀貨を十枚、そしてこの前の砂丘討伐の分を追加で四枚、革袋から出す。
「預け入れ、銀貨十四。引き出しはなしで」
「確かに。ガルマ派所属、ブロンズランク“ドーレイ”名義に加算……完了です」
書記は印章を押し、軽く声を落とした。
「最近は、ガルマ派以外も動きが活発で。……バルド派の連中がかなり殺気立ってます。お気をつけを」
名を伏せるふうで口にした“バルド”。公に喧伝しないあたり、興行同士の水面下の探り合いがあるのだろう。
「忠告、感謝する」
「いえ。銀行は誰の味方でもありませんから」
窓口を離れて、広場に出る。
ゼルハラは、オアシスの縁に張り付く商いの街だ。青布の天蓋の下、塩や香の袋が山積みになり、計り棒の軽い金属音が絶えない。貨幣だけじゃない。壊れた鍋を新品の柄と交換、干し肉を修理用の針と交換、砂で磨いた琥珀を壺一つと交換──物々交換はこの街のもう一つの血流だ。
奴隷の賃労働も珍しくない。首輪の紐に札を提げ、日雇いの“手”として呼び込まれる。日当は銅貨数枚、時にパン一つ。賃金は銀行の“奴隷口座”に直接入る。首輪と銀行がつながっているから、誰の手柄か一目でわかる仕組みだ。安い安心と、徹底した管理。ここではそれが当たり前に共存している。
アイアンでも、**「外勤奴隷証」**を発行すれば短時間だけ街に出られる。もちろん単独行動は禁止で、仕事主の責任が問われる。
俺は先日、リオルの名を使ってその許可証を取った。掃除仕事くらいなら、誰も文句は言わない。
路地の角で、見覚えのある細い背中が桶を抱えていた。
「リオル」
少年が肩をびくりと震わせ、振り返る。淡い緑の瞳。昨日よりも少し色が戻って見えた。
「……ド、ドーレイさん」
「掃除は慣れたか」
「う、うん。闘技場の観覧席の上段、砂が溜まるから落とすの手伝って……今は水汲みの当番で、外に出てきたの。」
掃除札を首輪に下げ、桶には布と灰。奴隷控室の洗い場で働く女たちから貸してもらったらしい。
「昼過ぎに裏の搬入口で、荷開けの掃き出しがある。そこを紹介する。日当は……銅貨四、焼きパン付き」
リオルの喉が小さく鳴った。
「……ありがとう」
ちょうどそのとき、露店の列を押し分けて、砂色の外套を着た男二人が現れた。胸元の布に刺繍された“梟”のひと針が目に留まる。
「砂税の徴収だ」
露店主が顔をしかめる。「砂税? 今日もか。昨日も払ったぞ」
「砂の輸送路を“守ってやってる”んだ。文句があるなら、別の路で商ってくれ」
言い草に、周りの空気がきしんだ。聞き慣れない紋。だが噂は聞いた。
──バルド派、運搬路の“保護料”。
正面から介入するつもりはなかった。だが男の視線が、リオルの桶と首輪の札に止まった。
「おい小僧、その水は誰の許しで使ってる。砂の路は“梟”が守ってる。使用料を置いていけ」
リオルの肩が強張る。手が震えて、桶の水がこぼれた。
「やめろ」と俺は言った。静かに。
「誰だ、あんた」
男が睨み、俺の首輪に気づく。銅の光と《タフネス》。彼の顎の筋肉がわずかに動く。
「ブロンズ、か。なら話は早い。こいつが使った分、代わりに払え」
掌を出される。路地のざわめきが、ひとつ分厚くなる。
俺は半歩、男の内側へ踏み込んだ。
路地に立つ時の“線”は、砂の上でも街石の上でも同じだ。肩で威圧させず、目線を胸で受け、腰だけをわずかに切る。
「使用料は、路の管理者と店舗の契約で決めるものだ。通りすがりの桶にはかからない」
「理屈を並べるな──」
掴みかかってきた手首の角度で“慣れていない”のがわかった。手の甲を下へ、肘を外へ。力の向きをずらすだけで、男は自分の前腕で自分の胸を小突く形に崩れた。もう一人が短棒を抜く。木の打撃音が落ちる前に、俺は足の甲を軽く踏む。体勢が沈み、短棒の先が床石を叩いた。
刃は抜かない。殴りもしない。ただ“通せない”。
数拍の静止。空気が歪み、男たちが互いに目配せをした。
「……ちっ。覚えておけ、梟の目は高い」
外套が砂を切って去る。天蓋の鈴が、遅れて一度だけ鳴った。
リオルが、桶の縁を握ったまま俺を見上げる。
「……こわく、ないの?」
「怖いよ」
正直に言う。
「でも、“守る”って言葉は、怖さより先に立てなきゃ形にならない。俺はそれで生き延びてきた」
昼、闘技場裏の搬入口で、荷開けの掃き出しを紹介する。汗まみれの係が不機嫌にこちらを見、俺の首輪と銀行の札を確認して小さく頷いた。奴隷の仕事は、奴隷の首輪と銀行が連結している。それが安心であり、鎖でもある。
「日当は控えに入れておく。明日の朝、銀行で確認しろ」
リオルが深く頭を下げた。
「……ありがとう。ぼく、やる」
夕刻、中央通りに出る。青布の天蓋が琥珀色に染まり、香の煙が低く流れる。金貨の重みは、銀行の石柱の中に数字と化して眠っている。
街は今日も回る。誰かの血と、誰かの汗で。
路地の向こう、闘技場の壁が赤く光った。
俺はその巨大な輪郭を見上げ、独り言のように言う。
「守る」
言葉は小さく、しかし砂に沈まず、胸の内側にとどまった。
その夜、赤砂の盃亭の看板に灯が入る頃、俺は銀行の控え札をもう一度確かめる。残高は変わらず、首輪の符は静かだ。
けれど、風の向きが少しだけ変わった気がした。
“梟”の刺繍。バルド派。街の別の血流。
砂の下には、まだ知らない暗渠がいくつも走っている。