第21話 赤砂の盃亭にて
エルガとの決闘から、数日が過ぎた。
南の砂丘地帯は、朝から陽炎が揺れている。風が砂の縞模様を撫で、遠くで駱駝の鈴が鳴った。俺は砂に半身を沈め、獲物の影を探す。
首に嵌められた輪が、鉄から鈍い銅色へ変わっていた。そこに刻まれた《タフネス》の文字は、相変わらず冴えないままだ。ブロンズ昇格の証──それでも、世界は急には優しくならない。
依頼は「砂丘周辺の魔物狩り」。ここ最近は外勤任務──ガルマから斡旋された闘技場外の依頼をいくつかこなしてきた。街道の護衛や荷車の見張りにも出た。
闘技場の砂と違って、ここの砂は命を賭けても歓声を返してくれない。代わりに少しばかりの銀貨と、静かな達成感が手に入る。
ゼルハラはオアシスを中心に広がる交易都市だ。中心街は布と香辛料の色で眩しく、外縁は奴隷区画と作業場が砂に貼り付いている。アレナ・マグナはその真ん中で心臓のように鼓動し、金と血を絶えず吸い上げていた。
市場通りでは砂避けの青布が頭上に渡され、昼は影を作り、夜は灯を受けて星の川のように光る。言葉も貨幣も入り混じる。北方ドロムハルドの鍛冶屋、東のイストリアから来た書記、獣人の荷運び。異なる匂いと足音が同じ砂に沈み、ゼルハラという一つの音になる。
ふいに、砂丘の斜面がざわりと動いた。
三つの影。灰褐色の甲殻、黒光りする尾の針。全長二メートル──サンドスコーピオンだ。
「……あれが今回のターゲットか」
砂煙を割って三匹が散開する。尾の先に宿る毒は即死級。だが、頬をかすめた疼きが熱に変わると同時に、ガマン+が体の奥で鈍く唸り、毒の侵入を押し返した。
俺は腰の黒鉄のナイフを抜くと、左手のひらをその刃で浅く裂いた。滲む血が刃身に垂れ、じわりと赤黒い光を帯びていく。
「出ろ──アルマ・ドローリス」
刹那、血が刀身を這い、赤黒い光が噴き出す。
オーラは形を持たずに揺らめき、やがてナイフ全体を包み込んだ。
刃は二回りほど膨れ、脈打つように赤黒く明滅する。
鋼が変わったのではない。血と痛みが変換され、刃の“外側”にもう一枚の殺意が重なったのだ。
砂を蹴り、一歩。尾の軌道を半身で外し、甲殻の継ぎ目へと突き入れる。手応えは、骨を貫く冷たい感触。暴れる脚、跳ね上がる砂。二拍目で首節を断つと、巨体は砂に沈んだ。
残る二匹が同時に尾を掲げる。
一体目は、尾を誘って砂に突き立たせ、露出した腹を裂く。
最後の一体は跳び込みの勢いを逆手に取る。身体を半回転させながら顎下を抜くと、赤黒い刃が音もなく閃き、砂煙の中で甲殻を断った。
オーラが淡く霧散し、刃はもとの鉄の姿に戻る。
「……よし」
息を整え、剥ぎ取った毒嚢を布に包む。帰り道、砂丘の向こうにゼルハラの尖塔と石壁が揺らめいて見えた。
夕刻、依頼の報酬を受け取り、俺は“いつもの”店に向かった。
赤砂の盃亭──赤い土で塗られた外壁と、吊るされた無数の盃が目印の酒場だ。剣闘士も商人も旅人も、皆ここでのどを湿らせる。俺がブロンズに上がった夜、ここで安い酒を頭からかぶるほど祝われたのを思い出す。
「ドーレイ!」
亜麻色の髪がぱたぱたと揺れて飛び込んでくる。白いローブの裾を踏みそうになりながら、専属治癒士のセリナが笑った。
「今日もちゃんと帰ってきましたね! ね、ほら、席とってあります!」
彼女の後ろ、壁にもたれて杯を揺らしていたのは──
「まだ生きてたか、不死身」
「そっちこそシルバー様じゃないか」
ジャレドが口の端だけで笑い、俺の銅色の輪に視線を落とした。彼の首輪は銀色に光り、鈍い酒場の灯でも格が一目で分かる。
「昇格、おめでとう」とセリナが両手で杯を掲げる。「ジャレドさん、ほんとにシルバーになっちゃって」
「“なっちゃって”は余計だ」
乾いた笑いがこぼれる。卓には香草と羊肉の串、香辛料の効いた豆の煮物、焼いた薄パン。酒は甘く、喉で少しだけ刺さる。
盃を合わせたとき、店内の客が何人も軽く杯を掲げ返した。顔は知らなくても、砂の上の名だけは覚えている──そんな距離感が、この街の呼吸だ。賭場の親父が指を三本立てて「次は三枚だぞ」と笑い、奥の舞台では踊り子が鈴を鳴らす。酒と香の匂いが重なり、夜は濃く、やさしい。
「闘技場から宿に移ったって本当か?」
「ああ。街の“ハシバミの小間”って宿だ。壁は薄いが、鉄格子はない」
冗談めかして言うが、目の奥には長い夜を抜けた者だけが持つ安堵が灯っていた。
「いいな……。俺も早くシルバーへ行きたい」
ブロンズになってから牢は出た。代わりに与えられたのは小汚い狭い部屋。屋根があるだけましだが、壁の染みは血か水かわからない。
「焦りは悪くない」とジャレド。「ただ、足をばらばらにする焦りは捨てろ。半歩で崩して、一息で通せ」
「相変わらず言い方が渋いんですよね」とセリナが笑い、真顔に戻る。「でも、ドーレイさんが早く昇格したいなら、近道はあります」
「試合か?」
「それと、高難度の外勤依頼。興行主から直接もらえるやつ。成功すれば査定に響きます。治療班も高位が付くから、死ににくいですし」
杯の向こうでガルマの片目がちらつく。俺の命も昇格も、彼の机の上の札次第だ。
「……もらえるように、稼ぐしかないか」
「私はちゃんと付いていきますから!」セリナは胸を張って、すぐに恥ずかしそうに目を泳がせた。「あ、もちろん許可が出れば、ですけど!」
笑いが広がる。盃が重なり、音が宙に弾んだ。
店を出ると、夜風が砂の匂いを運んできた。露店の灯が点々と続き、音楽と笑い声が遠くから流れてくる。中心の尖塔からは神殿の鐘。アレナ・マグナの上空には、試合の余韻がまだ漂っていた。
「今日は泊まってくか?」とジャレド。
「いや、戻るよ。明日、ガルマのところに顔を出す」
「そうか。……死ぬな」
「さっき酒場でも言っただろそれ」とセリナが頬をふくらませ、すぐ笑う。「でも、ほんと死なせませんから」
手を振って別れ、俺は闘技場の裏通路へ入った。夜になると露骨に湿った空気が漂う。奴隷区画に続く搬入口の方角からは、荷車と怒号と、時々、骨の鳴る音がした。
鉄の壁際で、低い呻き声がした。
角を曲がると、アイアンの首輪をつけた数人が、さらに痩せた少年を囲んでいる。栗色の短髪、淡い緑の瞳。首輪が緩く見えるほど細い首だった。
「雑務のくせに、餌を先に受け取るとはいい度胸だな」
「どうせすぐ死ぬくせに、生意気なんだよ」
少年は掃除用の桶を抱え、丸くなっている。腕には青黒い痣。尻もちをついたまま、震える膝で必死に後退ろうとしていた。
俺は歩幅を変えずに近づき、輪の中へ足を入れた。砂と鉄のこすれる音。視線が突き刺さる。
「なんだよ……誰だ、てめぇ──」
俺は答えず、少年の肩に手を置いて立たせた。腕は鳥の骨みたいに軽い。怯えた目が、暗がりでもはっきり見えた。
──あの目に、昔の自分を見た。
「もうやめろ」
怒鳴り声でもない。ただ線を引くように、低く。
アイアンのひとりが舌打ちし、俺の首輪を見た。銅の鈍い光。次の瞬間、彼の顎の筋肉がわずかに強張る。ブロンズは、もう“ただの肉壁”ではない。
「ちっ……行くぞ」
吐き捨てる足音が遠ざかり、鉄と砂の混じった床に三つの足跡が残った。
少年が口を開けて、何か言おうとして言葉にならなかった。喉の奥で空気が擦れる音だけが出る。
「名前は」
「……リ、リオル」
「そうか。明日、訓練所の裏に来い。雑務の口ぐらいは探してやる」
俺は背を向け、数歩歩いて振り返る。リオルは鉄の影の中で立ち尽くし、胸の前で握りこぶしを作っていた。瞳の揺れ方が、さっきより少しだけ強くなっている。
夜風が汗の塩を連れてきた。首の輪は銅色で、刻まれた《タフネス》は変わらず冴えないままだ。
それでも、守るべき線が一本、胸の中に増えた気がした。
アレナ・マグナの方角で、遅い太鼓が二度、低く鳴る。俺は狭い部屋へ戻る足を速めた。次の依頼をもぎ取るために──そして、次の誰かを守るために。
いつもお読み頂き本当にありがとうございます。
いよいよ3章突入です!ここからは闘技場内だけでなく、ゼルハラの街や帝国、それ以外の国々も絡んだ壮大な展開となってきます。
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