第2話 外れ奴隷、闘技場へ引き出される
数日が過ぎた。
牢では、ぬるい水と硬すぎて歯が欠けそうな黒パンが与えられるだけ。
昼夜の区別もわからない地下牢だが、
頭上の明り取りの窓から砂混じりの風が吹くたび、外が暑いのか寒いのかだけは伝わってきた。
外からは歓声、怒号、断末魔。
一度だけ地響きのような歓声が起こり、
牢全体の砂がざらりと舞い上がったこともある。
──ここは“ただの牢獄”ではない。
何かの舞台裏。
嫌でもそう悟らされた。
その日、ついに鎖が引かれた。
「来い」
兵士に連れられ、狭い通路を歩かされる。
石造りの壁には砂がこびりつき、通路に吊られた松明の煙が目にしみる。
狭い通路を抜けると、開けた石造りの広間に出る。
今、俺の目の前に腕を組んで立っているのは──
興行主ガルマ・ヴェルト。
大柄で筋骨隆々、片目に古傷のある男。
鋭い眼光がこちらを値踏みしてくる。
彼の後ろには屈強な兵士たちが控え、空気そのものが重く感じられた。
「スキルはタフネスか。……外れだな。すぐ死ぬ」
低い声で吐き捨てるように言いながら、ガルマは俺を直視して言った。
「だが、生き残れば名は残る。──闘技場はそういう場所だ」
俺は何も言い返せなかった。
ただ、社畜時代に聞き飽きた「使えないやつ」みたいな言葉が、異世界でも突き刺さってくることに苦笑するしかなかった。
ガルマが首輪を覗き込み、こちらを一度だけ細く見たあと、ぽつりと訊ねた。
「名は?」
咄嗟に口を開く。
「……堂礼一真」
ガルマは片眉を上げ、顔を僅かにしかめた。声が掠れて届いたのか、首をかしげて俺の答えをもう一度聞こうとした。
「──ん? 長いな。聞き取れん。覚えきれんよ」
そう言うと、彼は手元の小さな札に簡単に文字を走らせ、肩を竦めるように吐き捨てた。
「“ドーレイ”でいい。名簿にはそう書いておけ」
俺は苦笑がこぼれた。
(社畜の次は奴隷か……皮肉だな)
◇
控室へ押し込まれると、
汗と血の臭気が肌にまとわりつく。
中にいたのは同じ奴隷剣闘士たち。
全員、瞳に諦めがこびりついていた。
その中で、ひときわ大きな影が動く。
巨体。
分厚い胸板。
盛り上がった筋肉の上を汗が黒く光る。
その男が、手に持っていた木剣を軽く握りしめ──
バキッ
と、指の力だけでへし折った。
「……新入りか」
低く、岩の奥から響くような声。
視線だけで肺の奥が圧迫される。
ラガン。
後で知る。俺の“初戦の相手”だと。
その目は、
餓えた獣が新しい餌を見つけた時のものだった。
◇
そして数時間後──ついにその時が来た。
「次の試合だ。行け」
兵士に鎖を外され、手渡されたのは一本の剣。
錆びつき、刃こぼれだらけの鉄の剣。
「……おいおい、これ武器って呼んでいいのか?」
思わず口をついて出たが、兵士は無言で背を押すだけだった。
通路を抜けると、ごうっ、と耳を劈く歓声が押し寄せた。
砂の匂いと血の臭気が混ざり合い、全身を包み込む。
巨大な円形闘技場──アレナ・マグナ。
数万、いや十万近い観客が奴隷の命のやり取りに熱狂している。
兵士が吐き捨てるように言った。
「行け、スレイブグラディエイター。砂の上で命を削り合うのがお前らの役目だ」
……スレイブ、グラディエイター?
この世界の言葉では何の意味もない音の連なりなのだろうが、俺には妙に皮肉に聞こえた。
社畜から奴隷、そして剣闘士。
どこまで落ちれば気が済むんだ、俺の人生。
目の前にはラガン。
分厚い筋肉に覆われた体、手には大振りの戦斧。
その存在感だけで膝が笑いそうになる。
観客席からは罵声が飛び交った。
「すぐ死ぬなよ!少しは耐えて見せろ」
「タフネス奴隷の肉祭りだ!」
(意味は違うのだろうが、日本語の“奴隷”と同じ響きだ……)
……やるしかない。
ここは会社よりよほど“結果”が露骨な世界だ。
勝てなきゃ死ぬ。
2025/9/29 ドーレイとガルマの会話に名前のくだりを追加
2025/11/23 表現と言い回しを改稿




