第18話 砂上の開戦、血の影
角笛が裂け、空気が震えた。
数万人の咆哮が幾層にも重なって押し寄せ、砂の大地が一瞬で戦場へと姿を変える。旗がうねり、硬貨の束が空を舞い、香辛料と酒の匂いが熱気に溶けた。アレナ・マグナの壁面が低く唸り、胸板の内側を拳で叩かれたような衝撃が、骨の芯まで響く。
「エルガに十枚!」
「不死身は十合まで!」
「いや、ラガンを殺ったんだ。賭けろ!」
罵声、囃し立てる声、銅貨の触れ合う音。全部が波になって押し寄せ、足首の砂を微かに揺らす。俺は柄を握る手の汗を親指で拭い、肺の奥まで一度息を詰めてから、ゆっくり吐いた。喉が焼ける。だが頭は凪いでいる。
相対するエルガは、ただ歩いてくるだけだった。急がない。一歩ごとに砂が少し深く沈み、空気が重くなる。円盾がわずかに角度を変えるたび、場内の熱が遠のき、音が薄くなる。耳鳴りの奥で、砂粒の擦れる音だけが立ちはだかった。
(来る)
剣先が白い気配をまとい、俺の頸動脈に“線”を引くように静かに漂う。俺は半身、刃を立てる。脳裏でジャレドの短い声が鳴った――「半歩で崩して、一息で通せ」。
初手。円盾の面がわずかに傾き、剣が横へ走る。半歩ずらし、刃を斜めに当て流す。火花。砂の匂い。肩に重さは残ったが、折れない。返す一拍で切っ先を伸ばすと、盾の縁が軽く叩き落としてきた。空を切る。すぐに足をずらす。
「受けたぞ!」
「互角だ!」
二合、三合――拍子が刻まれるたび、練習で擦り切れた足裏の痛みが“位置”を教えてくれる。押し込まれても崩れない。腕の痺れも、まだ握りを奪うほどじゃない。いける、線を通せば――そう思った瞬間、相手の“静”が牙を見せた。
盾は壁じゃなかった。押す、受ける、弾く、隠す――全部が刃。四合目、面打ちの気配で目が泳いだ一拍に、小突きが鳩尾に刺さる。肺が裏返り、膝が砂にめり込む。
五合目、視界の端で円が反転し、縁の白い閃きが頬骨を掠めた。汗が揺れ、遅れて痛みが追いつく。六合目、剣が弾かれた瞬間、盾で視界を遮られ、次の斬り下ろしが肩口に食い込んだ。熱が走り、血が一滴、砂へ落ちる。
その滴の影が――赤黒く、揺れた。
(今の……)
心臓とは別の鼓動が、掌の奥で一度だけ跳ねる。爪の下がじんわり熱い。だが形にはならない。次の白い線がもう迫っている。俺は痛みを噛み潰し、足を内へ寄せ、角度で殺す。
七合。八合。衝撃が肩から背骨へと抜け、握りが甘くなる。柄頭を握り直す。親指は添え、小指と薬指で引っかける――その基本に縋る。九合、肩を薄く裂かれ、熱い線が皮膚を走る。十合、踏み込みが浅くなった足を狙われ、踵がすべった。砂の線が途切れる。
(まだだ)
喉が砂を飲み、息が粗くなる。観客の熱は期待と嘲りの中間で揺れ、エルガの瞳だけが湖面のように静かだ。こちらの善戦も苦戦も、最初から算段済みだとでも言うように。
一息長く吸い、吐く。柄に掌の熱が集まる。さっきの影は消えた。痛みが足りないのか。覚悟が足りないのか。答えは出ない。ただ、崩れていく拍子を必死に繋ぎ直す。
攻防の絵柄を変える。わざと半拍遅れ、受け・崩し・斬りを一息にまとめる。十一合目は通った。円盾が一瞬上に跳ねる。だが十二合目、今度は相手が二拍目を詰め、剣の背で俺の刃を押し流してきた。肩が重く垂れ、視界の端が黒く欠けていく。
観客のざわめきが、いつしか賭け声に戻る。
「もう決まるぞ!」
「エルガに倍賭けだ!」
残響が胸骨に響く。だが、足はまだ砂を掴んでいる。俺は膝を伸ばし、柄を握り直した。汗と血で滑る手に、体温とは違う微かな脈が残っている。砂の上で一本の線を思い描く――ジャレドに殴られてまで身体に叩き込んだ、あの線だ。
(折れない。折れたのは会社での俺だ。ここじゃない)
エルガの剣先が白く息づき、場内の熱が自然に引いていく。次の幕を告げるかのように、白が、静かに濃くなった。
白が濃くなる直前、エルガは一度だけ呼吸を整えた。音にならない吸気。胸郭の上下も見えないほど小さい。ただ、砂の上に落ちる彼の影だけが微かに縮む。体内のどこかで、拍が重ね直される気配がした。
(まだ本気じゃなかった、ってことか)
唇が勝手に乾いた笑いの形になる。怖気づくな。怖気は刃を鈍らせる。俺は歯を食いしばり、逆に間合いを詰めた。打ち合いの絵を変える。こちらから仕掛ける一合。切っ先で視線を奪い、柄頭で胸骨を叩く。わずかに、エルガの足が砂を噛む。好機――のはずだった。
「甘い」
円盾の縁が、俺の手首を撫でるように弾いた。握りがぐらつく。そこへ短い突き。腹筋の上で鈍く音がして、背中から空気が抜けた。世界が一瞬、遠ざかる。
(……落ちるな)
膝を伸ばす。伸びないなら、砂を掘ってでも足場を作る。足指で砂を掴み、半歩だけ内に寄る。刀身の角度を一度、二度、三度と変え、相手の拍子の歯車に噛み合わせようとする。かみ合わない。歯先が欠けているのは俺の方だ。
肩の裂け目から血が新しく流れ出した。肋骨の下、鈍器で叩かれたような痛みが波状に押し寄せる。喉に鉄の味。視界の色が一段暗くなる。砂に落ちた血が、今度は二滴、三滴と増え、赤黒い輪を広げた。
影がまた、揺れた。さっきより長い。
(来い。来るなら、ここだ)
掌の奥で、微かな“脈”が規則性を持ちはじめる。心臓とは別の、傷の拍動。痛みの波形が一点に焦点を結びそうになる。だが、形になりかけたその線を、白い斬撃が断ち切った。
「ぐ、っ……!」
膝が落ちる。砂が跳ね、耳の奥で自分の息が反響した。観客席がざわつく。誰かが笑い、誰かが叫ぶ。名前を呼ぶ声も、罵倒も、もう紙一重の距離だ。
起きろ。
砂の味を噛みつぶす。奥歯が軋み、頭蓋に響く。立ち上がる。細い糸で吊られたような膝が震えても、立てば線は引ける。引ければ、通せる。通せれば、ここはまだ戦場だ。
エルガの目がわずかに細くなる。見下ろす目ではない。“測る”目だ。俺の次の一手を待つ目だ。心の中のどこかが笑った。俺はまだ、相手に手を選ばせている。
なら――選ばれない手を出す。
刃を下げ、腰を落とす。斬りではなく、踏み。砂の奥の固い層まで足を刺し込み、その反発で上体を前に投げ出す。大ぶりの振りかぶり。誰でも見える大きな隙。観客席が息を呑む。
白。
剣が滑る。円盾が押し込む。俺の上体は確かに後ろへ弾かれた。だが、柄頭が、相手の盾の縁に“当たる”。当てるだけ。崩しは半拍しか効かない。そこへ、半歩。足の内側で砂を掬い、腰で刃をねじ込む。
カン、と乾いた音。エルガの腕がほんの刹那、伸び切る。白の拍子が一筋だけたわむ。俺はそのたわみを“通す”。
砂の上に、一本の線が延びた。まだ浅い。けれど確かに繋がった線だ。
歓声がわずかにこちらへ流れる。賭場の盤面を弾く音が増える。俺の名を呼ぶ声が、一段だけ太くなる。
(通せる。けど、足りない)
肩で息をする。肺の中で小さな火が燻っている。そこに油を注ぐのは、痛みだ。血だ。――まだ足りない。
エルガは動じない。砂を蹴り、また間合いを詰める。さっきより近い。俺の呼吸に合わせて入ってくる距離。そこから出された斬りは、綺麗すぎて、いやらしいほどに綺麗だった。
受ける。流す。殺す。通す。――繰り返しの中で、削られていくのは俺の筋力だけじゃない。意識の縁だ。視界の端に黒が滲み、音のいくつかが遠のく。
それでも、足は動く。動いているうちは、まだ“戦える”。膝が砂に沈みかけても、指先で砂を掻き、身体を起こす。
そして――
額の汗が、目に落ちた。視界が一瞬白む。その刹那に入ってきた円盾の角が、眉の上を裂いた。温かいものが視界を染める。片目の光量が落ち、白と砂のコントラストが崩れる。
(視えない)
落ちるな。もう一方の目で線を描け。俯くな。俯いたら死ぬ。顔を上げろ。
顎を上げる。砂を噛む。白い線が来る。半歩、半拍、半身――ギリギリで躱す。頬をかすめる風が冷たい。血で冷えた皮膚に、白の気配は氷のようだ。
観客が総立ちになる気配が、足裏を通して伝わる。ざわめきは歓声に、歓声は悲鳴に、また歓声に。場内の温度が乱高下し、俺の体温だけが一定に下がっていく。
(……ここだ。ここで、切り替わる)
エルガの剣先の白が、ほんの少しだけ濃くなった。音はない。だが、見える。白が層を一枚、重ねたのが。彼が「次」に進むのが。
俺は堪え、立ち、握り、呼吸し、砂を踏む。
角笛の余韻は、まだ空に細く残っている。
白が、静かに、確かに、濃くなった。
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