第17話 砂上の朝、闘技の幕開け
朝。
牢の錠が外される甲高い金属音で目を覚ました。
ひび割れた石壁に染みついた湿気と血の匂いが、喉の奥にざらつきを残す。
砂の乾いた香りと鉄の冷たさが入り混じる空気を吸い込みながら、ゆっくりと立ち上がった。
この牢で迎える朝は、もう何度目だろう。だが、今日だけは違う。
今日が――決戦の日だった。
「出ろ、不死身」
兵士の短い言葉が突き刺さる。
鎖の感触もなく、背を押されて通路を進む。
(……そうだ。あの頃も毎朝こうやって叩き起こされていた)
まだ空が暗いうちにスマホが震え、上司からの着信が鳴る。
「すぐ来い、トラブルだ」
休日だろうが深夜だろうが関係なかった。
身体が悲鳴を上げても、「はい」と答えてスーツに袖を通すしかなかった。
眠気も疲労も、言い訳にすらならない。
(耐えるしかなかった……あの頃は。それが今の俺を作った)
通路に漂う砂の匂いが、満員電車の汗と機械油の匂いに重なる。
違うのは、これから向かうのが会議室じゃなく、死地だってことだ。
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控室に通されると、ざわめきが一瞬にして広がった。
鋭い視線、押し殺した声。あちこちから囁きが飛んでくる。
「ラガンを殺ったってのが、まだ信じられねぇ……」
「……あれは偶然だ。耐え抜いたから勝てただけで、次はそうはいかねぇ」
「だが――もしまたやれるなら、正真正銘の番狂わせだ」
誰もが知っている。ラガンはシルバーの首輪を付けてはいたが、その実力はゴールドにも劣らぬ猛者だった。
だからこそ、その死は理解の外にあった。
畏怖と羨望、そして「次は無理だろう」という冷たい諦め。
侮蔑でも期待でもない、入り混じった視線が俺を刺す。
(いいさ。どう見られようが構わない。俺が信じるのは、自分の“線”だけだ)
脳裏に浮かんだのは、ジャレドが叩き込んでくれた剣筋。
砂に刻んだ一本の線。あれを今日、通すしかない。
「ドーレイさん!」
控室の奥から駆け寄る声。亜麻色の髪が揺れ、セリナが立っていた。
大勢の視線をものともせず、まっすぐ俺の前に立つ。
「……絶対に帰ってきてください」
昨夜と同じ言葉。だが声は震えていない。
強く、真っ直ぐな眼差しだった。
「任せろ」
短く返すと、彼女の目がわずかに潤んだ。
小さく拳を握りしめて、何かを祈るように俯いた姿が、逆に胸を締め付けた。
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その時、背後から低い声。
「不死身」
振り向けば、木剣ではなく腰に鉄剣を差したジャレドが立っていた。
鋭い眼光は、控室のざわめきを一瞬で沈める。
「線を忘れるな。半歩で崩して、一息で通せ。それができなきゃ盾に殺される」
口調は荒いが、声の奥に熱がある。
昨日まで砂の上で叩き込まれた無数の打撃が甦った。
掌に刻まれた衝撃の記憶が、痛みではなく指針となって燃える。
俺は無言で頷く。
それ以上、言葉はいらなかった。
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鉄扉の前に立つ。
外から響くのは、数万人の観客の熱狂。
砂を打ち鳴らす太鼓、角笛の轟き。
足裏が痺れるほどの振動が、扉越しに伝わってくる。
兵士が一本の鉄剣を差し出した。
これまでより幾分かマシに見える。刃こぼれは少なく、鈍いながらも光沢が残っていた。
「……前よりは武器らしいか」
皮肉を飲み込み、柄を強く握る。
兵士は鼻で笑った。
「どうせ犬死にだ。せめて剣だけは見映えする方がいいだろう」
(木剣でも、錆び剣でもない。今日は“本物”で刻む日だ)
「次はお前の番だ。不死身のドーレイ」
無機質な声。だが確かに、運命を告げる音だった。
深呼吸一つ。喉が焼けるように乾いている。
だが拳を握れば、掌の奥が脈を打つ。
赤黒い刃の影が一瞬だけ揺らぎ、すぐに消えた。
(……まだだ。舞台の上で、出ろ)
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扉が軋みを上げて開かれた。
眩しい光と、耳を裂く歓声がなだれ込む。
アレナ・マグナ――帝国最大の闘技場。
砂に覆われた円形の大地、石造りの観客席が何層にも積み重なり、空へと伸びている。
旗が翻り、香辛料と酒の匂いが風に混ざって降りてきた。
数万の観客が立ち上がり、罵声と喝采を同時に叩きつけてくる。
「不死身だ! ドーレイだ!」
「相手はエルガだ!」
「どうせ盾に潰されるぞ!」
歓声と罵声が渦を巻き、名前が歓喜と嘲笑の両方で叫ばれていた。
足を踏み出すたびに砂が沈み、膝が重くなる。
それでも進む。檻の中心へ――。
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反対の門から、もう一人の影が現れる。
鍛え抜かれた体躯、光沢を放つ丸盾と鋭い片手剣。
歩くだけで観客席が揺れた。
「エルガ様だ!」
「技巧の剣士!」
「盾と剣の舞いを見せてくれ!」
圧倒的な声援。
盾を構える仕草ひとつで、観客が息を呑む。
その瞳は冷たく、敵を計るというよりも、勝利をすでに確認している者の目だった。
エルガもまた同じだ。首輪はシルバーに過ぎない。
だが誰もが噂する――その技量はすでにゴールドに匹敵しながら、なぜか昇格を望まず、あるいは留め置かれているのだと。
彼が砂に足を踏み入れた瞬間、空気が凍り付いた。
重圧が全身を押し潰す。これがエルガ――本来ならゴールドに並ぶ剣闘士。
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砂の中央で、互いの視線が交わる。
観客のざわめきが遠のき、世界が刃と盾だけに収束していく。
勝てばブロンズ。
負ければ死。
鉄の匂いが、呼吸とともに肺を満たす。
俺は剣を握りしめ、ただ一つ心に刻んだ。
(倒れるんじゃない。生き延びて――勝ち取る)
角笛が、試合開始の時を告げようとしていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ついにエルガとの一戦が幕を開けます。
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