第16話 檻に眠る決意
砂にまみれた体を引きずり、俺は自分の牢に足を踏み入れた。
背後で門番が扉の噛み合わせを確かめ、外から錠を落とす。
ガチャン――冷たい音が石壁に染みこんだ。
(……残り一日、か)
壁に背を預けて膝を折る。
全身が焼けるように熱いのに、血の匂いは薄い。
肩に走った裂傷は赤黒い線に変わり、腕の擦過は薄膜で覆われていた。
治癒は受けていない。なのに勝手に塞がりかけている――その異常が、眠気より先に頭を冴えさせる。
隣の牢から、誰かの低い声が漏れた。
「……また立って帰ってきやがったか」
怨嗟とも羨望ともつかぬ響きが、鉄格子の隙間を伝ってくる。
俺は何も返さず、ただ砂を払い落とした。
遠く、夜の歓声が揺れた。
今日も誰かが砂の上で血を流している。
(明日で仕上げる。次に立つのは、砂の中央だ)
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夜がほどけきる前、訓練場に立った。
冷えた砂に足が沈み、手の皮は固く痛む。木剣を握る指はまだ動く。
「よく来たな、不死身」
ジャレドが丸盾を持って現れる。切っ先の代わりに、無言の圧がこちらを刺した。
「盾は“壁”じゃねぇ、“刃”だ。甘く踏み込めば突きに呑まれる」
言葉と同時に突きが来る。
木剣で斜めに受け、半歩ズラし、腰で返す――昨日叩き込まれた型を、骨に通すように反復する。
だが一瞬遅れれば、丸盾の縁が頬をかすめ、砂に視界が叩き落とされる。
何度も立ち上がり、また叩き伏せられる。
背骨が軋み、肺が焼ける。だが、倒れた痕跡は砂に刻まれるだけで、体の傷は不気味に速く薄れていく。
崩し→受け→斬り返し。
間の半歩を潰せた時だけ、線が途切れず一本につながる。
「…今のだ。半拍早く“通せ”」
短い言葉が砂に落ちるたび、手足の鈍さが少しずつ剥がれていった。
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正午。
配膳台の硬いパンを噛み、ぬるい水で流し込む。
噛むたびに奥歯が軋むのに、胃はまだ入ると言っている。
同じ机に座る他の剣闘士たちがちらりと俺を見る。
「まだ生きてる」――囁きが、笑い声より冷たく響いた。
(生き残るってのは、こういうことだ)
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「終了じゃねぇ。立て」
ジャレドの影が伸びた。
午後はさらに苛烈だった。
盾の角で視線を奪われ、突きで胸骨を叩かれ、足払いで砂を食う。
顔面に飛び散る砂が汗に張り付き、視界を霞ませる。
それでも立つ。立てるうちは、まだ削れる。
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夕刻。
赤い光が砂を斜めに渡るころ、ジャレドの木剣がようやく下りた。
「……少しは“当ててる”じゃなく、“通せる”ようになった」
彼は肩で木剣を担ぎ、短く告げる。
「今日で仕上げろ。明日がお前の試合だ」
その背が夕陽に溶ける。
その一言は脅しではなく、現実の宣告として胸に沈んだ。
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控室。
セリナが駆け寄り、俺の肩口に顔を寄せた。
「……待って、さっき割れてた皮膚、もう盛り上がってる」
指先がためらいがちに触れる。熱はあるのに、血は見えない。
「治すな。この痛みは残しておく」
言うと、彼女は苦笑しつつも、目の底に灯を宿した。
「じゃあ、せめて水。喉、焼けてます」
差し出された杯を一気にあおる。
鉄と砂の味が、わずかに甘くなった。
セリナはしばらく黙り、やがて真剣な顔で言った。
「……明日、帰ってきてください」
声は小さく、それでいて強かった。
俺は短く頷く。
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夜。
自分で牢に入り、門番が錠を落とす。二度、金属が噛み合う音。
格子の向こう、月が砂塵を銀に染めていた。
掌の奥が、心臓と同じ拍でじんわり熱を打つ。
まぶたの裏に、赤黒い刃の影が一瞬だけ揺らぎ――すぐに消える。
(倒れるんじゃない。生き延びた跡を刻むんだ)
拳を握ると、小さな音が石壁に吸い込まれた。
静かな檻に、準備の終わりだけが残った。
読んでいただきありがとうございます!
いよいよ次回から試合本番。ここまで積み重ねた訓練と決意が、どんな結果を呼ぶのか。
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