第11話 不死身の影、訓練場に立つ
湿った石の匂いで、目が覚めた。
鉄格子越しに差し込む光は薄く、昼なのか朝なのかも分からない。
ここが俺の“部屋”――いや、“牢”だ。
控室にいられるのは試合の前後だけ。
勝っても負けても、俺の居場所はこの石の箱。
鉄と血の匂いが染みついた、まるで生きた墓場みたいな空間だった。
隣の牢から、かすれた声が聞こえた。
「おい、不死身……昨日の試合、見たぞ」
しゃがれた声の主は、同じアイアンランクの男。
痩せこけた体に、古びた首輪。
俺の名前を呼ぶ口ぶりには、称賛でも羨望でもなく、ただの怨嗟が滲んでいた。
「お前が勝つたびに、俺たちの賭けの倍率が下がるんだよ。死なねぇ奴隷なんて、誰も見世物にしたくねぇんだ」
鉄格子を叩く音が響く。
それが「うらやましい」でも「すげぇ」でもないのが、この牢の現実だ。
勝っても、自由には一歩も近づけない。
⸻
「ドーレイ、出ろ」
鎖の音とともに、兵士が現れた。
開け放たれた鉄格子から外へ引きずり出される。
手枷は外されたが、首輪はそのまま。
皮膚に食い込む鉄の冷たさが、今の自分の“立場”を思い知らせる。
「どこへ連れていく気だ」
問いかけても、兵士は何も答えない。
通路を抜けると、眩しい光が目を刺した。
目の前に広がっていたのは、闘技場の裏手――訓練場。
砂と鉄の匂い。
数十人の剣闘士たちが、掛け声とともに木剣を振るっている。
ブロンズ以上の剣闘士にだけ与えられる訓練の場だ。
その中に、見覚えのある姿があった。
亜麻色の髪、白いローブ。
「ドーレイさん!」
セリナが手を振って駆け寄ってくる。
「昨日の勝利、すごかったです! あ、私、今日から専属治癒士になったんですよ!」
胸を張るその笑顔に、周囲の空気がざらりと変わる。
訓練中の剣闘士たちが、明らかに不快そうな視線を向けてきた。
「……アイアンに治癒士が付くのか?」
「ありえねぇ。俺らでも専属なんていねぇのに」
その中で、一人のブロンズ剣闘士が低く呟いた。
「……あいつが“ラガンさん”を殺った奴か」
その声に、周囲の数人がざわめく。
「嘘だろ……ラガンって、シルバーだったんじゃねぇのか?」
「いや、あの人はシルバーでも上位格だった。実質ゴールド中堅の実力だ。あの怪物の一撃を耐えたってだけでもありえねぇ。しかもラガンの斧には“闘気”が纏われてたんだぞ。」
「闘気……? そりゃもう、並の剣闘士なら触れた瞬間に骨ごと砕けるレベルだ。あんな攻撃を受けて立ち上がった奴なんて、俺は聞いたことがねぇ」
彼らの視線が、明確な敵意へと変わる。
“同じ舞台に立つ奴”ではなく、“規格外の存在”を見る目だった。
セリナは気づかず笑顔のまま俺の腕を引っ張った。
「ほらほら! こっちで体を動かしてって言われました!」
「……ガルマの指示か」
「はいっ! “死なないだけの奴隷”を“戦える奴隷”にしてやれ、って」
……まったく、ろくな言い方をしねぇな。
⸻
訓練場の中央には、木剣を持つ数人のブロンズ剣闘士たち。
その中の一人が俺を見るなり、鼻で笑った。
「おい、不死身さんよ。砂の上で這いつくばるだけが取り柄の奴が、ここに何しに来た?」
「……強くなりに来た」
そう答えると、訓練場が静まり返る。
すぐに笑い声が爆発した。
「強く? ははっ! タフネス持ちが“強さ”を語るか!」
「立ってるだけで奇跡のくせに!」
木剣が俺の胸元を突く。
一瞬息が詰まったが、倒れなかった。
「なるほど、さすがだな。不死身ってのは伊達じゃねぇ」
皮肉とともにもう一撃。
だが俺は、ただそれを受け止めるだけだった。
身体は痛むが、倒れない。
「……避けもしねぇのか?」
「避け方が分からん」
それを聞いた瞬間、笑い声が止んだ。
誰かが呟く。
「……マジかよ。戦い方、知らねぇのか」
俺は苦笑した。
「社畜時代は、怒鳴られるのを避けるくらいしかしてなかったからな」
しばし沈黙。
次の瞬間、数人が木剣を構えた。
「なら教えてやるよ。不死身の受け身の取り方をな!」
次々に打ち込まれる木剣。
背中、腹、肩。
何度も叩かれ、砂に倒れても、また立ち上がる。
繰り返し。
痛みの海の中で、ただ一つ確かに感じていた。
(……俺は、まだ“耐えるだけ”だ)
⸻
夕暮れ。
訓練が終わる頃には、全身が腫れ上がっていた。
セリナが駆け寄り、息を呑む。
「うわ……もうボロボロ……! すぐ治しますね!」
そう言いかけて、彼女の動きが止まった。
「……あれ? 血、止まってる……?」
セリナは目を丸くし、俺の腕や胸の傷を見回した。
確かに、さっきまで鮮血が流れていたはずなのに、今はうっすら瘡蓋ができている。
彼女が手を伸ばすと、傷口の周りがわずかに熱を帯びているのが分かる。
「す、すごい……治癒魔法をかける前に、もう回復し始めてる……」
その声には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
「いや……俺自身も、ちょっと怖ぇよ」
苦笑しながら答える。
セリナはそれでも魔法を唱え、淡い光を広げた。
温かい癒しの波が身体を包み、痛みがゆっくりと引いていく。
「もうっ、みんなひどいです! 本気で叩くなんて!」
「いや……いいんだ。痛いってことは、まだ生きてる証拠だ」
目を伏せ、砂の上に座り込む。
そのときだった。
掌に、じんわりと熱が走った。
手のひらの皮膚の下――血の奥が脈打つ。
(……また、あの時と同じ……)
微かに赤黒い光が滲む。
だが、剣は形を取らない。
ただ、心臓と同じリズムで、確かに何かが息づいている。
セリナが小首を傾げた。
「ドーレイさん? どうかしました?」
「……いや、なんでもない」
(あの剣は“痛み”から生まれた。
なら、次に現れるのは――“覚悟”を決めたときだ)
鉄格子の中の奴隷でも構わない。
戦いを選ぶのは、もう誰でもない。
俺自身だ。
⸻
夜。
牢に戻ると、外からかすかに歓声が聞こえた。
きっと、今日も誰かが闘技場で死んだのだろう。
目を閉じ、拳を握る。
血剣の鼓動がまだ、かすかに掌に残っていた。
「次は……耐えるだけじゃなく、“勝ち取る”」
闇の中、そう呟いた声が、鉄格子の向こうに静かに響いた。
第11話まで読んでくださり、ありがとうございます。
ここで物語は、「闘う奴隷」から「成長する剣闘士」へと大きく舵を切りました。
ドーレイはまだ最底辺のアイアン。
訓練場でも笑われ、技も知らず、ただ立ち続けることしかできない。
けれど、彼の中には確かに“何か”が芽生え始めています。
それは、《ガマン+》という不遇のスキルが示す“限界を超える意志”であり、
そして血と痛みから形を取る《血剣》の源となる覚悟です。
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