8. 不肖の弟子
箸休め回とは何だったのか。
前回はマイクロフト氏が激しく動いていたので
今度こそ箸休め回です。
ep.9(第8話)をお送り致します。
ロンドン郊外のミウラ道場に、久々に白い道着姿のマーサ・ハドスン夫人の
姿があった。
傍らには明灰色の大島紬を粋に着こなしたミウラ伯の姿もある。
今一人、にこにこと微笑みながら基本の型を繰り返し汗を流す少年の姿がある。
年の割には背が高く、一見ほっそりとしているが痩せぎすな訳ではない。
少年らしくきらきらとした目に力がある。
その鷲を思わせる目はマーサやミウラ伯にも似た処があるが、
もっと良く似た目を持つ人がいなかっただろうか?
そう、少年は、つい先日、ディオゲネスクラブで命懸けの推理を行った、
マイクロフト・ホームズ氏と同じ目をしていた。
「彼はどうだね?…随分手を焼いていると見えるが。」
マーサは、珍しい事に困惑していた。
「…こんな、『訳の分からない子』は初めてです。」
丸眼鏡を外し、目元を軽く揉みながらミウラ伯の問いに応える。
マーサとて、バリツに於いては伯に次ぐ実力者である。
黒帯を締めるに相応しく、これまで幾人となく指導もしていた。
そのマーサをして『訳が分からない』と言わしめるとは、如何なる問題児を
預けられたのか。
少年の名は『シャーロック』。
あのマイクロフト・ホームズ氏の弟であった。
・・・
時は過日のディオゲネスクラブに遡る。
一連の事件の陰に恐るべき怪人物、傅満洲博士の存在が
浮上した処で、マイクロフト氏の推理は一旦終了を見た。
ひとしきり話し終えるとベッドで半身を起こし、すっかり冷めてしまった
紅茶を一口啜り、少々顔をしかめたマイクロフト氏に伯が水を向ける。
「では、少し軽い話をしようじゃないか。
君の弟を私の道場に預けたい、との事だったな。」
「…こちらも、そう軽い話ではないかもしれんぞ?
どう話したものか…そうだな…
私の弟、シャーロックと云うのだが…」
考え考えマイクロフト氏が続けた言葉はとんでもないものだった。
「君達が見込みなし、と判断したなら…あの子を殺してくれ、と言ったら?」
「!!」
「!?」
伯もマーサも流石に目を剥くが、伯は一瞬の後、落ち着いて問う。
「…まずは事情を伺っても?」
「そうさな、ちと長くなるが、ホームズの一族の話からするのが良かろう…」
マイクロフト氏は訥々と語り始めた。
ホームズの一族は代々、瞬間記憶や博覧強記と云った
尋常成らざる頭脳、思考能力を持つ者を輩出して来た。
蓄えた知識や技術を適切に用い、時に応じて人々を助けて来たのだが、
ヨーロッパは彼ら一族にとって極めて生きづらい時代を迎える。
中世から近世にかけてヨーロッパ中に吹き荒れた、宗教裁判・魔女狩りの
嵐であった。
彼らの卓越した頭脳が、当時は恐るべき悪魔の奸智と見做されたのである。
必死の訴えも虚しく一族は迫害を受け、何人かは投獄され、火刑の憂き目に
合い、敢え無く生命を散らした者さえいたと云う。
必死の思いで彼らが落ち延びた先がイングランドであった。
イングランドで出会った貴族は幸いにして善良且つ寛容であった。
彼ら一族の能力を識るに至っても、迫害するどころか、かえって領の統治に
協力を求め、見返りに庇護を与えたのである。
イングランドに安住の地を得たホームズの一族は、或る誓いを立てた。
『我ら一族が持つ能力は決して悪事には用いない。
若しその能力を悪意を以て振るう者が現れたなら、
其の時は一族の手で彼の者の生命を絶つべし。』
一族の存亡を賭けた悲痛な誓約であった。
「…そして現在に至る、と云う訳だ。」
マイクロフト氏は再び冷めた紅茶を口に運び、先と同様に顔をしかめた。
「だが、今の話からは君の弟が悪人である、とは繋がらんのだが?」
「何か兆候が見て取れるのですか?」
確かに重い話ではあるが、マイクロフト氏の弟が悪人かどうかは別の話である。
「そこなのだ。」
マイクロフト氏は続ける。
「あの子の頭脳は粗雑で、能力も不足している。
強いて言えば、観察眼と推理力はそれなりと言えるが、私には及ばない。
落ち着きがなく、静かに考えを巡らす等と云う事は出来そうにもない。
私とハドスン氏のみが辿り着いた領域には到底届く事はないだろう。
だが、足りないながらも自身の能力を理解し、何者かになろうとし始めている。」
次第にマイクロフト氏の言葉に熱が籠る。
「能力的には代々でも劣った方であろう。
しかしその劣った能力でさえ、長じたあの子が悪意を以て振るうなら、
それはこの国の…いや、全世界の脅威に成り得るのだ。
そして、何を目指しているのか、私が聞いても話してくれんのだよ…」
「お兄様にも話してくれない事を私達に打ち明けるとも思えませんが…」
「本心を打ち明けぬまでも、出来れば良い方向に導いて欲しいのだ。
好んで弟を殺したい兄がいるものかね。
シャーロックはただ一人の弟であり、目下残る一族は私達二人だけなのだ。
あの子が善良に育つなら、出来るだけの後押しをしてやりたいのも本心だよ。
肉体的には頑健で活動的な子だ。
あの子の性格ではバリツの奥義とやらには決して到達出来ないだろうが、
純粋な身体操作で習得が可能な技術は一通り修めるだろうて。
ただ、そうなれば私はこの通りの身体だ。
元々そこまで丈夫でもなければ身体を動かすのも不得手だ。
万一あの子が悪の道へ進んだ時、いよいよ私では止められない。
だから君達に頼むのだ…」
二人に深々と頭を垂れるマイクロフト氏。
ミウラ伯とマーサはいずれも神妙な面持ちで互いの顔を見合わせるのだった。
・・・
「…シャーロック、今、何を考えていますか?」
努めて平静な声でマーサが訊ねる。
「化学の実験結果を予測していました。」
にこやかに返すシャーロック少年。
「なかなか興味深いんですよ?」
一見静かに座禅をしていると見えたシャーロック少年だが、
その実、頭の中では凄まじい勢いで思考を続けていたのだ。
先日は数学だか物理だかの公式を解いていた。
「…座禅と云うのは心を落ち着け、無にする事から始めると教えたはずですが。」
「いやだなぁ、自分のへそを見つめて宇宙と一つになる、とか
そんなの僕に出来る訳ないじゃないですか、おば様。」
「おば様はお止めなさい。」
『師匠』とまでは言わないが、最初に『姉弟子』と呼ぶ様伝えたにも
関わらずこれである。
言葉こそ丁寧だが、どうも舐められている気がしてならない。
(おば様は本当に止してくれないか。)
自分を憎々し気に『おばちゃん』と呼んだ苏西究の顔が思い出される。
(大体、まだ『おばさん』呼ばわりは早いだろう。)
意外に気にするタイプであるのか。
「…今日の処はもう、座禅は良いでしょう。
体術の修練を始めます。」
「そうこなくては! よろしくお願いします、おば様。」
「…」
白磁の表情ではあるが、こめかみに血管が浮いている。
先が思いやられるマーサであった。
体術の訓練を始めると、マーサはシャーロック少年への印象を改めざるを得なかった。
(粗雑な頭脳?能力が不足?どこが『劣った弟』なのか!?)
純粋な身体操作に限れば数回手本を見せ、型稽古を繰り返せば覚えてしまう。
基本の套路等、一度の看取稽古で身に着けてしまった。
有り体に言って、『早熟の天才』である。
しかし…
「そこ、呼吸が違います。」
「でも、このタイミングで呼吸するとリズムが合わないんですが。」
「リズムの取り方自体が違うのです。」
「うーん…納得がいかないなぁ。」
座禅の時もそうだったが、事が観念的な内容に及ぶと途端に付いてこれなく
なるのである。
彼なりの合理性に折り合いが付けられる場合は渋々従うが、精神論や
一種神秘主義的な指導には一切取り合うつもりがなさそうである。
付いてこれない、というよりそもそも『自分には必要ない物』と
切り捨てている節があった。
成程、マイクロフト氏が『奥義の体得等は到底適わない』
と言った意味が良く判る。
年若いながら、西洋的な合理主義の権化がここにあった。
時にはミウラ伯が手ずから指導を行う事もあった。
「少年、視ていたまえよ。」
或る日、『飛銭の技』を教えると見えて、硬貨大の銅板を数枚、
片手にジャラジャラと鳴らしながら伯が的に向かう。
シャーロック少年が固唾を呑んで見守る。
「フッ!」
一息に3枚の小片が手元から飛び、1枚は右から、1枚は左から弧を描いて
的に突き刺さり、残る1枚は正面から的を撃ち抜いた。
「凄い、凄いです、伯爵様!
こういうのを知りたかった! こういう技術を身に着けたいんです!」
何時になく興奮した様子でシャーロック少年が叫ぶ。
「凄いかね、少年。
だが、人間と云うものは、鍛え上げればもっと凄まじい事が出来るのだぞ?」
言いながら、伯がマーサに棒手裏剣を放る。
「よろしいのですか?」
「何時でも。」
「では。」
手裏剣を受け取ったマーサは言うや否や、伯の胸元を目掛け、
投げ付けた。
「!おば様、何をするんです!?」
「ぬんっ!」
少年が悲鳴を上げるのと、伯が裂帛の気合と共に両腕を交差させるのとが
同時であった。
ギィン
腕に深々と突き刺さるかと思われた手裏剣は、あろう事か金属音を立てて
交差した腕に弾かれていた。
「…驚かせてしまったかな?『金身羅漢の法』と云う護身の技だ。」
「相変わらずお美事ですね、こればかりは私も真似出来ません。」
「君が習得に苦労するとは思わなんだな…バリツを修めた女性の記録は殆どない。
男女差がある技なのかも知れぬ。」
「ここまでの硬度も、硬化に至る速度も私にはなかなか…」
角灯のジャックとの闘いの折に「伯ならば」とごちたのは
この技があればこそであったか。
如何にもこの技を以てすれば凶器等恐れるに足らぬ。
「?…どうした、少年。」
訝し気に声を掛ける伯の目に映ったのは、先の興奮はどこへやら、
何か醒めた様子で二人を見つめるシャーロック少年だった。
「いえ、凄い技ですね…でも、僕には身に付かない技ですし、
もっと言うと、避けるか、そもそも刃物を投げ付けられない方法を
探しますから。」
伯は意を決した様に少年に向き直り、努めて穏やかな声で問う。
「少年は、どこか刹那的と言うか、即物的と言うのか、
短期間に修得出来る技を好む処があるが、何か目的があるのかね?
或いは…単刀直入に聞くが…『何になろう』というのだね?」
(直接切り込みますか…伯らしい。)
マーサも薄々感じていた疑問ではあるが、ここまで豪胆には踏み込めない。
追い追い時間を掛けて問うていくつもりであったが…
「僕は…何になりたいんだろう?
僅かばかりのホームズ一族の能力で、兄さんがやらない、
外に出て動き回る仕事だと思うんですけど、それが何て言う職業なのか…
喉元まで出掛かっている気はするんですけど、具体的にどう言っていいのか
判らないんです。」
「例えば…少年の兄上の様な仕事かね?」
「兄さんみたいにはなれません。
兄さんは本当に凄い人なんです。
凄い能力があって、この国の為に生命を賭けている。
憧れた事もあったけど、僕には出来なかった。」
「警察官や政府の役人ではいけませんか?」
「僕がやる事が誰かの為になるならそれは嬉しいけど、必ずしも
この国の為や正義の為って言われるとそれは違うんです。
だから、政府の仕事や警察官でもない。
そんな訳の分からない仕事の為ですけど、僕はすぐにも役に立つ物だけを
出来るだけ沢山、自分の引き出しに入れて集めておきたいんです。
兄さんはちゃんと言葉にしないと聞いてくれないから言ってませんが。
…答えになってますか?」
「まぁ、保留としておこうか…ここでの修業はそう長くはなかろうが、
いずれ巣立つ時には、はっきりした言葉にして聞かせて欲しいものだ。」
いつもの怖い笑みで、だが優しく伯が告げる。
「!…はい!」
こちらも、いつものにこやかな少年だった。
・・・
難攻不落と思われたシャーロック少年のマーサへの態度だったが、
陥落の日は唐突に訪れた。
それは或る日の夕食だった。
「美味しい!おば様、これ、何て云う料理ですか!?」
「ホワイトシチュー、クリームシチューと云うのですよ。」
マーサの得意料理である。
牛乳にスパイスとブイヨンの旨味が溶け込み、ほろほろとほぐれた鶏肉の
ホワイトシチューは在りし日のハドスン氏も絶品と称したものであった。
「美味しい上に、栄養も満点なのです。」
あっという間にぺろりと平らげたシャーロック少年の視線が鍋に向かって泳ぐ。
まだたっぷりある。たっぷり…
「…あの、おば様?」
「何でしょう、シャーロック?」
「出来たら、お替わりを頂けたら…」
「シャーロック、人に何事か頼む時には必要な言葉がありますよね?
そう、『お願いします』の一言が。」
「…お替わりをお願いします、おば様。」
「『あ・ね・で・し』」
修行の時を遥かに凌駕する、有無を言わせぬ迫力を感じる。
「ぐぬぬぬ……お替わりをお願いします、『姉弟子様』。」
僅かな葛藤は食欲の前に脆くも崩れ去った。
「えぇ、たんとお上がりなさい、シャーロック。」
「たっぷりですよ!鶏肉をたっぷりと!」
「はいはい。」
ありついたお替わりを夢中で頬張るシャーロック少年の背後で、
彼に気付かれぬ様、「フンス!」と小さくガッツポーズを決め、
勝利の余韻に浸るマーサであった。
何が箸休めだよ!長いわ!ヽ(`Д´)ノ
更に執筆中に恐るべき事実が判明。
ホワイトシチュー(クリームシチュー)、日本発祥だと…!?
しかも成立は戦後…!?
そんな話、知りとうなかった…
大人は嘘吐きではないのです。ただ、間違いをするだけなのです云々かんぬん。
この作品時空では19世紀のイギリスにホワイトシチューがあったんだ、
そうに違いない。
シャーロック少年はきれいなアミバ(北斗の拳)です。
視た技は大体覚えます。(限界あり)
彼の信条はきれいなジャギ様(北斗の拳)ですね。
「兄より優れた弟など存在しねーっ!」
城内はシチューもカレーも大好きです。




