7. ディオゲネスクラブ
結構アクションが続いた気がするので箸休め回になります。
ep.7(第8話)を投下致します。
ロンドンはパル・マル街の一角に、対照的な二人の姿が見える。
一人は男性、総髪にイギリスでは奇異な焦茶色の武者袴。
今一人は紺色のデイ・ドレスに丸眼鏡の婦人。
ミウラ伯とハドスン夫人であった。
二人が門前に立つ建物に掲げられた比較的新しい標札には
『ディオゲネスクラブ』
と刻まれていた。
当時、主に上流階級の紳士が好んだ会員制社交クラブの一つである。
『社交』を謳いながら、このクラブには奇妙な、そして絶対の規則がある。
『会話を禁ずる』
書籍や新聞を読んでも、書き物をしても良い。
軽食を取るのも自由。
コーヒーや紅茶、或いは酒や煙草を嗜んでも構わない。
しかし、如何なる時と場合であってもホールで他人と喋ってはならない、
というのが鉄の掟であり、この規則を破り声を発したならば、
三回の警告を以て除名・退会処分となる厳格なものであった。
この様な変人の巣窟、しかも恐らくは女人禁制であろうクラブに
婦人を伴って訪れるミウラ伯は一体何を考えているのか。
(あまり、ここには来たくなかったのだけれど…)
マーサも白磁の表情こそ変わらぬが、気乗りはしていない様子である。
堂々と、しかし微塵の靴音すら立てる事無く二人はクラブの扉に滑り込んだ。
・・・
既に先触れがあったものか、支配人の老紳士に伯の名刺を渡すと、
二人は地下の奥深い一室に通された。
当然であるがその間、一言の会話もない。
支配人が部屋の扉を開き、二人が中へ入るのを見届けると恭しく
一礼し、分厚い扉が重々しい音を立ててめられた。
中は厳重に防音されていると思しき小さな部屋であった。
扉の厚さから見るに壁も相当分厚く、その表面には革が張られ、柔らかく詰め物が
入れられていた。
部屋の中央にはマホガニーのどっしりとしたテーブルと、同様にマホガニーに
天鵞絨張りでクッションの効いた重厚な椅子とが置かれ、
この部屋の主が座している。
「…ようこそ。」
部屋の主から疲れた様な声がかかる。
「これより先は会話をしても構わない…が、静かな声で頼む。」
ひどく疲れた表情の男であった。
無造作にウェーブした、やや長めの髪は頭頂が少々薄くなりかかっている。
恰幅は良いが疲れた様子と相まって、とても活動的には見えない。
一見すると中年だが意外に若いのか?
その名を『マイクロフト・ホームズ』と云う。
政府の公認会計士、という肩書と共に、このディオゲネスクラブの発起人の
一人でもある。
だが、内実は政府の一機関に於いて、極めて微妙且つ重要な職務を果たしている
男であった。
ディオゲネスクラブ自体が、その為の隠れ蓑であるとも言える。
「マイクロフト、君にしか頼めぬ仕事だ。
済まないが生命を貸してくれ。」
ミウラ伯が怖い笑顔でとんでもない事を言う。
「…やれやれ、そんな事だろうと思った。
だが他ならぬあんたの頼みだ、やらざるを得ぬのだろう?」
苦い顔をしつつ、飾り気ない言葉で応える。
仕事の質こそ異なるが、似た様な立場にある二人は、存外気安い間柄で
あるらしい。
「であれば……
消毒薬の臭いもしない、手指に薬品の染みもない、看護師ではない様だ。
露出した部位の筋肉や体幹の鍛え方を視るに、あんたの処のエージェントかね?
荒事には慣れていようが、ご婦人に見せるにはあまり良くない代物だと思うが…」
ぶっきらぼうな物言いだが、マーサを慮っての言葉であるらしい。
「君の同僚であり、私達の共通の友人でもあった彼の…ハドスンの細君だよ。」
事も無げに、だが確かな重さの言葉でミウラ伯が告げる。
「!…そうか、彼の…」
マイクロフトははっとしてマーサに向き直り、誠実さの感じられる声で伝える。
「ハドスンは良い仕事仲間だった。立派な男だったな。
立場上、葬儀にも行けず申し訳なかった…」
「いえ、私達、互いの仕事は存じておりましたから、お気遣いなく。」
「もっと言えば、君の弟は彼女に預けるつもりだったのだ。
厄介な事件の為に延び延びになっているが…その為にも、今日は頼む。」
「成程な、分かった。
細かい事は仕事の後に伺おう。…生命があったら、な。」
・・・
重厚なマホガニーの椅子にマイクロフトが縛り付けられている。
何の恐れがあるのか、頭や胸、腕と足にも太い革のベルトで椅子に縛られていた。
現代の我々が見れば、レーシングカーのシートベルトを連想するだろう。
或いは…処刑用の電気椅子。
壁際でマーサが見守る。
椅子の後ろに立つミウラ伯が、マイクロフトの目に柔らかく包帯を巻く。
口には同じく柔らかな布で猿轡を噛まされていた。
「苦しくはないかね?」
落ち着いた様子でマイクロフトが頷く。
「では、始めよう…
切り裂きジャックなる、青い肌の怪人による連続殺人。
その身体は人とは思えぬ程の変貌を遂げ、異常な膂力を
発揮すると共に、精神性すら180度捻じ曲げられていた。」
マイクロフトの耳元でミウラ伯が優しく囁く。
と、マイクロフトの額に脂汗が滲み始める。
「その変貌は成分すら分からぬ薬物・毒物と、針によって齎された。
前後して発生した数々の不可解な凶悪犯罪。」
マイクロフトがガタガタと震え始める。
いや、これは全身が振動している?
「それら全ての事件に関わる、切り裂きジャックと同様に
肉体と精神を変異させられた男達。」
相当な振動であるのか、言葉を続けるミウラ伯はかなりの力を込めて
椅子を抑えつける。
太い革のベルトが今にも引き千切れんばかりだ。
「彼らは『怪力乱人』と呼ばれている。
肉体の怪奇な変貌と共に、かなり高いレベルで武術を仕込まれている。」
マイクロフトの手指はあろう事か硬いマホガニーの肘掛に食い込み、
爪が何枚か割れ、或いは剥がれる。
「暗器と毒を用いる東洋人、恐らくは清国人、満州族と思しき、
『苏西究』と名乗るチャイナドレスの女。」
激しく振動するマイクロフトは、最早鼻や耳から出血していた。
目の包帯にも血が滲んでいる。
「彼女に『主様』と呼ばれる謎の存在…」
「ーーーッ!ーーーーーッ!!」
ミウラ伯が言いかけると同時に、椅子毎飛び上がらんばかりに振動する
マイクロフトが、声にならない悲鳴を上げた。
直後に部屋をも揺るがすかの様な振動が止まり、がっくりと項垂れる。
「!…いかん、マーサ、処置を!」
マーサはついと椅子に近寄り、マイクロフトの手首を取り脈を診る。
続けて、綿に含ませたアンモニアをマイクロフトの鼻元へ持っていく。
「…む、むぅ」
呻く口元から素早く猿轡を解き、ブランデーの小瓶を開ける。
「ゆっくりと、一口飲んで下さい。」
苦し気に肩で息をしながらもマイクロフトがブランデーを嚥下するのを
確かめると、マーサは彼の顔から血を拭い、手指の手当てを始めるのだった。
・・・
恐るべき儀式が行われた小部屋で、マイクロフトは衣服を緩められ、
椅子から寝台に移されていた。
体力の消耗が著しいが今は落ち着いた様子である。
寝台の脇に吊るされた紐を引く手指の包帯が痛々しい。
「日本の茶は置いていないのでな、紅茶で容赦願いたい。」
呼び鈴の紐を引く回数で何が欲しいか伝えているのだ、とは訝しむマーサへ
向けての言葉であろう。
「構わぬさ、郷に入っては郷に従え、だ。」
ミウラ伯が悪い顔で嘯く
程なくして、扉をノックする音の後、するりと部屋に入った者がある。
茶を運んで来たのは支配人の老紳士だった。
「…ノックがあるまで、腱の音すら聴かせなかった。
研鑽を積んでいるな。」
「勿体ないお言葉、恐悦至極に存じます。」
このクラブを差配する為だけに、『月歩』の技を修めた男だった。
「では皆様、ごゆるりと…」
見事な手並みで茶を淹れると、再び音もなく退出する。
「…で、『視えた』かね?」
支配人が部屋の前から離れたのを見計らい、ミウラ伯が問う。
目隠しをされていたマイクロフトに何が視えたと言うのか。
「端的に、『視えた』事実と、君の『推定』とを聞かせてくれないか?」
「あぁ…、事態は深刻だな。」
ため息交じりにマイクロフトが返す。
「…この1年以内、遅くとも半年より前に、恐るべき世界的犯罪者、
大物中の大物が我が国へ密入国した形跡があった。
出自は清国・満州族の貴族とも、或いは王族とも云われている。
高い学識を有しており、彼の国に伝わる武術…拳法や、
医学・薬学にも精通しているらしい。
かなりの規模の組織を支配し、各国にいくつも拠点を持っている。
凡そ手を付けていない犯罪行為は無いに等しいが、
こと殺人に於いては銃を嫌い、拳法や撃剣、暗器や毒を好むと云う…」
・・・
『瞬間記憶』と呼ばれる能力がある。
一度見た視覚情報を写真の様に詳細且つ正確に記憶する能力であり、
生まれつき持っている子供は時折居るが、成人まで保つ者は稀である。
マイクロフトは、その数少ない例外の一人であった。
しかも彼の場合、一度見たそれを忘れる事無く記憶し続け、
更には記憶した情報を脳内で検索し、一言一句違える事無く
諳んじる事の出来る異常な能力を有していた。
自身の能力の希少性と有用性を熟知していたマイクロフトは政府と協力し、
国内の自身と同様の能力を持つ者達を秘密裏に集め始めた。
この様な能力者達が一所に集まると、どんな事が起こるのか。
市井の新聞から政府の機密文書、図書館に収められた古書に至るまで、
イギリス国内で目にする事が可能なあらゆる文字媒体が、彼らに開示され
閲覧・記憶される事となったのである。
そして政府筋の求めに応じ、必要な情報を瞬時に引き出し回答する事で、
微妙な判断を要求される政治的な問題の解決に協力する仕組みが出来上がった。
博覧強記の極みとも言うべき、文字通りの『生き字引』達による
検索システムが構築されたのである。
彼らの活動には余計な雑音の入らぬ静謐な環境が必須であった。
そこで設立されたのがディオゲネスクラブである。
ディオゲネスクラブでの情報検索活動を続ける内に、現在の処たった二人、
更に異常な能力が開花した者達がいた。
言う迄もなく一人はマイクロフト、もう一人はマーサの夫、ハドスン氏である。
引き鉄となるいくつかのキーワードを与えられると、本来知らぬはずの事に
対してまで、極めて事実に近い、蓋然性の高い推論で以て回答が得られる、
と云うものであった。
恐らくは、一見関連性がないと思われる膨大な記憶情報のストックをも
高速で検索し、関連が認められた記述を元に推理を行い、回答を導いていると
思われたが、聖書にちなんで『智慧の果実』と名付けられた
この能力を発揮するには、しかし、大きな代償を伴った。
即ち、彼ら自身の生命力である。
この能力が使用者に与える身体的負担の凄まじさは、先のマイクロフトが
能力を行使した状況を見るに明らかである。
だが、ここでは内容を明らかには出来ぬが、ある重大な国難の発生に際し、
ハドスン氏は己を顧みる事無く、立て続けに何度もこの能力を行使し
遂には問題の解決に至り、イギリスは救われたのであった。
しかし、その行為は彼の生命力を著しく擦り減らさずには置かなかった。
氏は病床に臥せり、惜しまれつつも程なくして天に召されたのであった。
・・・
驚くべき『智慧の果実』の能力に寄って導き出された事実。
語られた分のみでもこの国の安寧を揺るがすに値する内容であった。
だが、重大な一点が未だ詳らかにされていない。
「…その男の名は?」
静かに核心を求めるミウラ伯。
マーサの白磁の表情にも緊張が走った。
一瞬の間を置き、マイクロフトは応える。
「…その男の名は『傅満洲』博士。
犯罪者社会に於いて『天才悪魔』の二つ名で呼ばれ、畏れられる男だ。」
『智慧の果実』なる能力のネタ元は、古くは『魔界医師メフィスト』(小説)や
『魔界都市ハンター』(漫画)の『超推理』、
近年では『仮面ライダーW』(特撮)の『惑星の本棚』等が思い出されます。
特に『メフィスト』での描写がかっこいいんで使って見たかったんですよ。
上手く自分流に料理出来ていると良いのですが。
マイクロフトはちょっと若くてまだ髪の毛のあるハイドリッヒ・ラング
(OVA銀河英雄伝説 久々にワロタの人)
名前だけですが遂に登場した傅満洲博士はかなり古くから
小説やTV、映画等で活躍したヴィランです。
そのものズバリ、「天才悪魔 フー・マンチュー」という映画もありました。
城内は菊地秀行先生を超リスペクトしております。