5. La Femme Chinoise
※2025/9/11 誤字を修正しました。
マーサが強敵『霜柱のジャック』を倒したのも束の間、
新たな敵『角灯のジャック』は『機関』の同僚の生命を奪っていたのだった。
風雲急を告げる第5話(ep.6)を投下致します。…紛らわしいな。
冷たい霧雨が舞う中、ロンドンはハイゲイト墓地に於いて、しめやかに
葬儀が行われていた。
ロンドンの軍関係者の墓地と言えばウェストミンスター寺院にある
『無名戦士の墓』が有名であるが、これは20世紀、1920年に起源を発する。
参列者の数は多くないが、その中に黒のデイ・ドレスに帽子、ヴェールの
マーサ・ハドスン夫人と、黒紋付に袴姿のミウラ伯・アンジン12世の
姿があった。
先の宝飾店襲撃で命を落とした『機関』の男の葬儀である。
男の細君や幼い子供の肩を抱き、静かに声を掛けるミウラ伯の表情は
沈痛であった。
泰然自若を以て成る、豪胆を絵に描いた様な男である
伯がこの様な表情を見せる事は滅多にない。
「彼は立派な男でした。残念です。」
細君は『機関』とは関わりのない一般の女性であったから、事の詳細は
明かせない。
政府の一機関で、国を守る為の難しいが立派な仕事をしていた、と伝えるのが
精々である。
棺が降ろされ、イングランド国教会から派遣された主教が厳かに告げる。
「皆様、最期のお別れを…」
「お母様、どうしたの?泣かないで?」
頑是ない幼子の声が一層周囲の涙を誘う。
細君が泣き崩れる中、棺に土が掛けられていった。
土を被せ終え、建てられた墓石には男の名と生没年、そしてただ一言
『護国の義士』とのみ刻まれていた。
『機関』の殉職者の墓石には、この言葉のみが刻まれているのが常である。
だが、この飾り気ない、ともすると素気ない碑文を墓地で目にしたならば、
政府の高官や軍の高級士官、果ては貴族や王族に至るまで、皆一様に
敬意と哀悼の念とを示して止まない。
『機関』の猛者達の働きは、少なくとも公式の記録に残る事はない。
しかし、『機関』を識る者達は、その働きと戦いを決して忘れない。
イギリスと言う国家にとって、『護国の義士』とはそれ程に重い言葉であった。
「彼の頭は、包帯でどうにか人らしい形を整えるしかなかった。
最期に細君や子供に顔を見せてやる事すら出来なかった…!」
葬儀の前に、いつになく激情を発したミウラ伯の姿が思い出される。
「彼がどれ程困難で重要な責務に就いていたのかも伝える事が出来ない。
『仇は取ってやる』、とも言えない。
ただ、『彼は立派だった』と言ってやるのが精一杯とは、情けない…!」
濡れ仕事を生業とする『機関』の猛者と言えど人間である。
仕事の性格上、殉職者は稀ではないし、必ずしも虚心でいられる訳でもない。
そして、仲間や家族に対する情はあって当然であった。
むしろこの様な仕事だからこそ、情に篤い者達が多い。
仲間の悲惨な死にあって、彼の仕事を引き継がせてくれ、仇を討たせてくれと
声を挙げる者達が続出した。
が、伯は首を縦に振らなかった。
「皆の赤心、痛い程伝わった。
だが…この役割は、決して心を揺らさぬバリツ最強の戦士のものである!」
底光りする眼差しで伯は彼らに伝える。
伯がそこまで信を置く『機関』の猛者はただ二人。
一人は言うまでもなくバリツの正統伝承者たるミウラ伯自身。
今一人は…
霧雨は次第に本降りへと変わり、涙に暮れる参列者達の顔を更に冷たく濡らす。
(見ていてくれ、とは言えません…が)
細君と幼子を馬車へ送る伯の背中を見やりつつ、マーサは黒いヴェールの陰で
静かに決意を固めていた。
(仇は私が取ります!)
・・・
深夜のシティオブロンドンを蒼い影が駆ける、駆ける。
再び紺のディ・ドレスを纏ったマーサである。
シティオブロンドン。
スクエアマイルとも呼ばれる1平方マイルの小さな区画は
アメリカ・ニューヨークのウォール街と並ぶ、世界的な金融街であった。
宝飾店の並びは先の襲撃で厳しく警戒網が敷かれている。
ならば次は銀行と当たりを付け、マーサは金融街を駆け巡っていた。
駆けながら『史料編纂室』での会話を思い起こす。
「毒物、ですか…面倒な。」
殉職した男の検死の結果、彼は頭を潰される前に針の様な物で
背中に刺突を受けていた事が分かった。
そして、その傷口から正体は分からぬが、恐らくは麻痺性と思われる
毒が検出されたのである。
まだ若い細君と幼子を遺し、身動きも出来ぬまま殺害された彼の無念は
如何ばかりであった事か。
「敵は少なくとも二人以上、鈍器使いと毒針、恐らくは暗器の使い手、だな。」
「ならば我々も複数で当たるべきではありませんか!?」
「如何にハドスン夫人と言えど、危険でしょう!」
冷静に分析する伯の言葉に、『機関』の面々が色めき立つ。
「ならぬ。」
冷酷なまでの伯の一喝。
「先の襲撃が宝飾店とストリートギャングの拠点、同時であった事を忘れたか。
相手が一組とは限らぬし、あの青い怪人も一人二人ではないだろう。
未だ正体の糸口すら掴めぬが、切り裂きジャックに端を発する
一連の事件は明らかに組織的な犯行なのだ。
宝飾店を襲撃したと思しき一団にはこちらの最高戦力たるマーサをぶつける。
諸君らの実力を低く見ている訳ではないが、皆は二人以上で組を作り、
他の地域の警戒に当たりたまえ。」
事の重大さを理解していない者はこの場に居なかった。
悔しさをにじませつつも、面々は伯の厳命に従ったのである。
・・・
金融街を駆けるマーサの耳に、大砲の如き轟音が響く。
(向こうか!)
二つ三つ先の通りと見て駆け付けたマーサの前に濛々と土煙が立ち込める。
銀行の堅牢な壁にぽっかりと大穴が穿たれていた。
晴れやらぬ土煙の中から現れたのは、右手に鋼鉄の棍棒を提げ、
左手に角灯を掲げた青い巨人。
角灯のジャックであった。
切り裂きジャックや霜柱のジャックをも凌駕する巨躯もだが、
その皮膚はマーサをして目を見張る程の異様さがあった。
とは言え、傍目には数ミリばかり両眼を見開いただけであったが。
(この溶けて固まった様な異様な皮膚、筋肉の動きが見えにくい。)
又してもやりづらい相手の登場に、些か辟易を禁じ得ない。
(腱の収縮は聴こえるだけましか…いや!これは!?)
巨人の背後から黒光りする物が飛んで来た。
キュンッ
巨人の陰に潜むもう一人の健が収縮する音を聴き分け、瞬時に独楽立ちで躱す。
2~30センチもあろうかと言う長針であった。
中国拳法の暗器、峨嵋刺や點穴針と言った名称を識る者も居よう。
壁に突き立った先端の数センチにはてらてらとした黒い液体が塗られている。
これが例の麻痺毒か。
(成程、伯も良く見抜く…棍棒使いと暗器使いの二人組か。)
「哎呀、外れたアルよ!
刺さればそれでお仕舞だったのに、何で避けるアルか!?」
好き勝手を宣いつつも、隙なく長針を構え巨人の陰から姿を現したのは、
果たして、絢爛なチャイナドレスに身を包んだ妖艶な娘であった。
水蜜桃の如き白い肌、伸びやかな艶めかしい手足、
形の良い胸にくびれた腰、大きく張りのある尻。
艶のある黒髪を左右に振り分け団子の様に纏めている。
清朝・満州で見られる両把頭と呼ばれる髪型だ。
柳の様な眉に二重の大きな黒い目、すっきりとした鼻筋に紅玉もかくやと
言わんばかりの紅い唇。
凄みすら感じさせる美女である。
が、この女と褥を共にしたい、と考える男はまずいないであろう。
よりによって、これ程の美女が何故こんな酷い表情を!?と言いたくなる程の、
下卑た厭らしい笑みを常に浮かべているのである。
「おばちゃん、おっかないから遇いたくなかったアルよ…
あ~…ハイハイ、切り替えてこー!
あたしは苏西・究。
こっちのでかいのは角灯のジャック、アル。
あ~、覚えなくていいアルよ!
覚えなくていいから…とっととくたばってくれたら嬉しいネ!」
醜悪な笑みを崩さず、言いたい事を言って再び長針を放つスージー・Q。
だが、流石に視えている飛び道具に当たるマーサではない。
「チッ、躱すアルか…ランタン! このおばちゃん、ぶっ殺してヨシ!
援護するから全力でヤるアルね!!」
他者を嘲る様な笑顔を絶やさず、物騒な事を言う。
「わ…判った、姐さん。」
声が掛かるや否や、薄ぼんやりと突っ立っていた巨人が俊敏に構えを取る。
鈍重そうな見た目や言葉使いに反し、その動きは切り裂きジャックどころか
あの霜柱のジャックにも引けを取らない。
明らかに何らかの武術を高いレベルで修めた動きであった。
右手の棍棒はそのままに、左手の角灯からじゃらりと鎖を伸ばすと、
ゆっくりと振り回し始めた。
鎖は棍棒と角灯を繋いでいる様である。
見れば角灯も鋼鉄製で、かなりの重さがあると見えた。
(!?…これは分銅鎖の類か!)
分銅鎖、或いは万力鎖は鎖の両端に錘、
或いは一端が錘、もう一端に棒や刃物など他の武器を繋いだ暗器の一種で、
日本に於いては『鎖鎌』が良く知られる処である。
暗器と言ったがその域に留まらずかなり柄の長い物も見られ、繋げる武器も
流派により様々であるが、この巨人は己の膂力を活かして棍棒を
選んだものであろう。
一般に、分銅鎖は扱いに相当な熟練を要する為、実戦では所謂『弱い武器』と
される事が多い。
だが、目の前の巨人は鋼鉄の棍棒を右手のみで軽々と扱い、同じく鋼鉄の角灯が
ぶら下った鎖を左手のみで苦もなく旋回させ続けたまま、マーサに対峙している
のである。
恐るべき使い手と言えた。
しかも巨人の異様な皮膚はマーサの目を以てしても筋肉の動きが容易に掴めず、
攻撃の出かかりを捉えにくくしていた。
加えて、スージー・Qは既に物陰に身を隠し、油断なく毒針でマーサを
狙っているのである。
先程の石壁に突き刺さる程の長針の投擲や、今もひしひしと身に迫る殺気から、
用いる武器や技の質は違えど、彼女が巨人に勝るとも劣らぬ手練れである事は
明白であった。
達人の気を放つ巨人と一見自然体で立つマーサが互いにじりじりと間合いを
計り合う。
そして、マーサからは見えぬ位置より息を殺して隙を伺うスージー・Q…
ジャラッ
シュッ
巨人の左手から投げ放たれた角灯と、奇妙極まる浮かれ女、
スージー・Qの手から飛ぶ長針とが、共に尋常成らざる速度で
マーサを襲うのが同時であった。
タイトルは言わずと知れたイエローマジックオーケストラの名曲、
『中国女』が元ネタです。
YMOも、もう細野さんしか居らなんだなぁ。
ようやく名前が出ました、『苏西・究(スージー・Q)』です。
キャラ付けはハーレイ・クインと言うよりは女ジョーカーっぽい気がします。
(いずれもバットマン)
絵的なイメージだと、安永航一郎先生(漫画家)にチャイナドレスの
下品な峰不二子(ルパン三世)を描いてもらったら一番近い感じかなぁ…
城内はイエローマジックオーケストラの皆様を超リスペクトしております。