4. 女王陛下の1ペニー銅貨
※2025/9/9 難読・常用外の漢字にルビを追加、
語句の誤りを修正しました。
敢えて不利な戦いに挑む
『機関』のエージェント、マーサ・ハドスン 対
『氷の道化師』ジャック・フロスト、
その運命や如何に!
ep.5 の投下です。
ロンドンの裏町で対峙する二人。
『機関』のエージェント、マーサ・ハドスンと青い怪人、霜柱のジャックである。
徒手空拳のマーサに対し、ジャック・フロストはバリツ戦士の天敵とも言える。
背負ったボンベの口金から液体窒素を撒き散らし、面攻撃を可能にする。
液体であるから常の様な最小限での見切り・捌きはむしろ危険が増すばかりで
あり、必然大きく躱さざるを得ない。
更に気化した窒素は室内であれば窒息の危険もあり、今は屋外に逃れたものの、
容易に近づく事が出来ない。
剣呑な相手であった。
「さて、ではダンスを一指し舞って頂きましょう!」
右手にノズルを構え、空いた左手に手槍を取り出したジャック・フロストが嘯く。
手槍の柄に巻かれた鈴がシャンシャンと耳障りに鳴り響く。
液体窒素を横薙ぎに撒きながら、手槍の射程範囲にマーサを追い込んでいく。
瓦斯を野放図に撒き散らすでもなく、射出は短く単発、或いは三点バーストと
その使い方に無駄がない。
シャン!
躱した先に突き出される手槍をすんでの独楽立ちで避ける。
「ほほぅ!それが『斜めに直立する』という奴ですか!
成程、不可思議な動きですなぁ。」
言いつつノズルをマーサに向けるのを見るや即座に跳び退る。
体力が削られる上に、攻撃に転じる暇を得られない。
(『道化』等ととんでもない、実にやりにくい。)
表情は変えず、マーサは内心で思わず毒付く。
ジャック・フロスト、道化を気取った軽口で相手を苛立たせつつ、
読みの入った戦術で確実に追い詰める、厭らしい戦い振りであった。
切り裂きジャック等とは比べるべくもない、人狩りの達人が
そこにいた。
・・・
攻めに転ずる機会が得られぬまま、戦いはマーサに不利なまま続いていた。
幾らか液体窒素の飛沫を浴び、また手槍が掠めたものか、スカートの一部は
焼け焦げ、デイ・ドレスの端々が切り裂かれ、頬や手に切り傷や凍傷が
見られる。
「ご婦人の身で、よくもまあこれ程の立ち回りを演じられるものですな。
このジャック・フロスト、誠に感服致しましたぞ!
しかし…些かお疲れでありましょう、宴たけなわではございますが、
そろそろフィナーレ!と参りたく存じます!」
相も変わらず軽口を叩きながら、しかしジャック・フロストは些かも油断なく
間合いを詰める。
今やマーサは袋小路に追い詰められていた。
もはや液体窒素の射線は躱せない、躱せば手槍の突きを逃れ得ない、
『殺し間』に追い込まれた状態であった。
危地にあっても心は揺れぬマーサだが、攻めに転ずる手札が絶望的になかった。
(一瞬でいい、虚を突き一撃を加える一手があれば…)
何ともなしにポケットを弄る、と、指先に触れる物があった。
(…! これがあったか!)
ポケットの中にあったのは、1ペニー銅貨であった。
直径30ミリ程、重さは20グラム程の銅貨で、その表面には
女王陛下の若々しく清楚な美しい横顔が刻まれている。
現代に於いては『ヤング・ヴィクトリア』の名で好事家に珍重される
古銭であった。
無論当時は何という事のない通貨であったが、マーサは日頃から
『自分に勇気を与えてくれる』と言い、お守りの様に1枚だけはむき身で
持ち歩いているものである。
因みにもう1枚、『自分に幸運を与えてくれる』お守りとして、
結婚の折に夫から贈られた6ペンス銀貨をこれは額装し、夫婦の写真と共に
自室に飾っていた。
硬貨を握り締め、静かに、しかし凛としてマーサはジャック・フロストに
言い放つ。
「認めましょう、貴方は強い…ですが、依然としてバリツは無敵です。」
「冴えない遺言でしたなぁ、勇敢なご婦人だが、愚か者だ…
では、お死になさい!!」
些か失望した様な声色でジャック・フロストは応え、無慈悲に液体窒素を放つ。
シャン!
手槍が迫る刹那、マーサは後方の壁に跳んだ!
「おおっ!?」
跳んだ先の壁を1歩、2歩駆け上がり、3歩目で壁から飛翔、
驚愕の声を上げるジャック・フロストの頭上を飛び越え、背後を取る。
頭から落ちるかと見えたマーサが逆さのまま指先で1ペニー銅貨を弾く。
「女王陛下の名は讃うるべき哉!」
ジャック・フロストの背負ったボンベが爆ぜるのと、マーサが落下の直前
くるりと回転し、着地したのが同時であった。
ジャック・フロストが背負ったボンベは液体窒素と圧搾空気の2本に
分かれていた。
圧搾空気は液体窒素を噴出させると共に、蒸散した窒素瓦斯の中で彼が
呼吸する為に不可欠の物であったのだが、ここではその高圧が仇となり、
硬貨で穿たれた衝撃で破裂し、液体窒素のボンベをも吹き飛ばしたのであった。
バリツに、『飛銭の技』と呼ばれる技術がある。
銅銭や、同じ様なサイズに打ち抜いた金属板を投げ、或いは指先で弾く
投擲技術で、投げれば左右自在に弧を描く軌道で突き刺さり、
近距離で弾けば小口径のデリンジャー拳銃程度の威力はあると言う。
強力無比な飛び道具であるが、基本的に無手で戦うバリツに於いては
裏の技と言える。
しかしながら、日本にはこの技のみを極め、捕り物の名人とまで呼ばれた
警吏もいたとの事で、オランダ商人を通じて届けられた日本のバリツ宗家からの
書簡を手にしたミウラ伯が愉快そうに語ってくれたものであった。
(名は確か…『銭形平次』とか言っていたか。)
一瞬、会話の記憶を辿りつつマーサが振り返る。
ジャック・フロストは、自らの武器と恃んだ液体窒素を全身に浴び、
凍り付いていた。
爆ぜたボンベの破片が背に突き刺さり、滴る血も流れる傍から凍っていく。
「ああ、凍る!私の身体が凍ってしまう!
動けない、逃げられないではありませんか!」
悲痛な叫びを上げるジャック・フロストの眼前に、ゆらりとマーサが立つ。
「尋問に答えるつもりがあるなら、少なくともこの場は生かして
連れ帰りますが?」
これ程の男が『志を同じくする主』と言うからには主君を裏切る気は
ないだろうが、一応の確認と、見事に戦った敵手への、これは一抹の
情けであったかも知れない。
「…私への情けなら無用のものですよ、勇敢なご婦人。
貴女の技や度胸には驚嘆と尊敬の念を禁じ得ませんが、それとこれとは別。
主様や組織の秘密は一切お話致しません。
道化師は演目が終われば引っ込むもの、私はここまでと言う事です。
もはや言葉は要りません…さあ、おやりなさい!」
事の善悪は置き、この奇妙な男もまた戦士であった。
「…お美事。」
マーサは恭しく一礼するや刹那に間合いを詰め、ジャック・フロストの
腹に神速の一撃を決める。
古流に於いて、『鉄菱』或いは『鎧通し』と言われる技の類であった。
「お手前も…」
凍り付いた道化師はペストマスクの下にどこか満足気な清々しい程の笑顔を湛え、
腰から真っ二つに砕けた。
・・・
この夜の戦いにはもう一幕があった。
大通りの宝飾店が、青い怪人の襲撃を受けていたのである。
「好!好! お仕事はこうでなくっちゃ楽しくないアルね!
楽なお仕事は大好きアルよ!
楽して儲かるお仕事はもっと好きアルよ!!」
壁に大穴の開いた店の中で愉し気に宝飾品やインゴットを袋に投げ込み、
時に大振りの宝石を手に取り眺めながら嬌声を上げているのは何時ぞや
マーサと切り裂きジャックの戦いを覗き見ていたチャイナドレスの
娘である。
鼻から下が薄絹で覆われ表情は読めないが、その声色から察するに、
満面の笑みであるに違いない。
「霜柱のジャックの奴はあれで頭が回るし腕も立つから一人でお使い
出来るのがいいヨ。
こっちは言う事は良く聞くけど、いちいち指示出してやらんと戦う以外は
お子ちゃま並みなのがイマイチネ~。
…ほら、ボーっとしなイ! 綺麗な石やピカピカした金色銀色は
全部袋に詰めるアル!」
「あ、姐さん…石、きれい…」
娘の命令に子供の様に従い、もっさりとした動きで宝飾品を拾い集めているのは、
果たして、青い巨人であった。
異様な姿。
2メートルを超える巨躯に小山の様な筋肉、そして全身の青さもさることながら、
何より異様であるのは爛れた様な全身の皮膚であった。
話に聞くフランケンシュタインの怪物に頭から溶けた蝋を浴びせて固めたならば、
この様なスタチューが出来上がるであろうか。
左の腰にはランタンを、右の腰には鋼鉄の棍棒をぶら下げている。
その様な怪物が唯々諾々と子供の様に若い娘の命令に従う姿は更に不気味と
言う他ない。
『角灯のジャック』がその怪物の名であった。
「それにしても、あの黒眼鏡のおっちゃんは存外弱かったアル。
あたしとランタンの二人がかりなら軽いもんアルね。
この国の裏の連中も大した事ないアル。
…あのおっかないおばちゃんが特別強いアルかね?とんでもない威圧感だったし。
お仕事中にばったり出くわさないといいアルけどね~…ン?何アルか?」
呑気に呟く娘の側に、黒い帽子に黒覆面、暗い色の長衣を纏う男が小走りに
歩み寄った。
見る者が見れば、その服は満州服、旗袍と呼ばれる物と分かったであろう。
娘の耳元で何かしら囁く。
と、娘の顔色が見る見る内に変わった。
「…何ィ!霜柱のジャックが倒されたァ!?
死んじゃったアルか?って真っ二つゥ!? 彼奴、あれで結構ヤるのに…
相手は…あのおばちゃん!?
こうしちゃいられないアル! ランタン、とっととお宝集めル!
ほら、お前も突っ立ってないで袋に詰めるの手伝うアルよ!
集め終わったら速やかに急いで撤収するアルね~!」
一行は慌ただしく残りの宝飾品をかき集めると、夜の闇に消えて行った。
荒らされた宝飾店に残ったのは数人の死体。
その全てが無残に叩き潰され、或いは引き千切られていた。
中でもその内の一人、黒服の男の死体は凄惨にもその頭部を叩き潰されて
絶命していた。
傍に転がるひしゃげた黒眼鏡の破片が通りの瓦斯灯の光を無機質に
反射している。
嘗てマーサとミウラ伯の茶席を眩し気に見つめていた、『機関』の男であった。
ここのジャック・フロストはアトラスの雪だるまではなく
フラック(ウィザードリィ)がマッチョになったイメージですね。
ジャックシリーズが次々に出てきますが、英語圏の『ジャック』だの
『ジョンドー』なんて言うのは日本で言う『名無しの権兵衛』、
男性の不確定名みたいなもんですので、『切り裂き男』とか『霜男』、
『提灯男』といったショッカー怪人と思いねぇ。
19世紀当時の1ペニー銅貨や6ペンス銀貨は今ではなかなかのお値段が
付いた古銭です。
おいそれと欲しいな、とは言えないくらいのお高いもんでした。
この手のコレクションに本邦の「明治1円銀貨」を1枚持ってますが、
銀貨って金属で軽く叩くととても良い澄んだ音がするので好きです。
いつか中国の「袁世凱 1 円銀貨」が欲しいのですが、お高い上に
偽物が多いんですよね…
城内は世に蔓延る贋金の駆逐を強く望んでおります。