3. ロンドンを覆う霧
少々間が空きましたが新しいエピソードをあっぷっぷ致します。
てか、ほぼ当初の予定の1週間くらいの間隔ですね。
お盆も明けましたし、これくらいのペースでやっていけたら
良いかしらと思います。
切り裂きジャックの事件が一応の落ち着きを見せたのもつかの間、
ロンドン市中には剣呑な事件が相次いで発生する様になった。
大胆にも銀行や宝飾店の壁を破壊し財貨が強奪される。
ストリートギャングやアイリッシュマフィアのアジトが次々に襲われ、
構成員が無残に殺害される。
次々に起こる凶悪犯罪に対し、スコットランドヤードは効果的な解決策を
見い出せず、ロンドンは徐々に犯罪の深い霧に浸食されていったのである。
そして、まことしやかに囁かれる噂。
曰く
『事件の際には青い肌の化け物が目撃された。』
『人とは思えぬ程の膂力で建物を破壊し、獣じみた敏捷さで人を襲った。』
『魔法としか思えぬ不可思議な方法で残虐に生命を奪った。』
…
今朝もロンドンの町並みにはセンセーショナルな事件を告げる新聞売りの
声ばかりが威勢よく響く。
新聞を買い求めた男が誰に告げるともなく呟いた。
「ロンドンは一体どうなっちまったんだ?
いや…ロンドンはこれからどうなっちまうんだ…?」
・・・
「『切り裂きジャック』の検死結果が出た。」
眉間の皺がそのまま刻み込まれた様な声でミウラ伯がマーサに告げる。
この豪胆な男が怖い笑み以外の表情を見せるのは珍しい。
「何か判りましたので?」
「…何も判らん事が分かった。」
司法解剖から判明した事が何もない訳ではなかった。
全身に針を刺した跡がある。
経口・注射を問わず大量の薬物が投与されている。
しかし投与された薬物の多くはその種類も効能も不明。
但し、恐らく身体の異常な変化と強化に関連する物だとの推測はある。
そして、
「脳に大量の針、ですか。」
その脳内から10センチ近い針が5本6本も発見されたと聞いて、
流石のマーサも僅かに眉をしかめた。
「恐らくはこれも身体の変化・強化に関わる何かやも知れぬが、な。」
緑茶を注ぎながら伯が続ける。
「なお、ヤードから耳に挟んだのだが、スラムにほど近い下町の町医者が
一人、夏頃に行方不明になっているそうだ。」
「その医者がジャックの正体だと?」
「ところが、その医者は身長こそ同じ程だが、ジャックとは似ても似つかぬ
細身で優し気な気の良い男で、それこそ金のない娼婦達も親身に診察する等、
娼婦ばかりを狙うジャックとは真逆の人間性の持ち主、との事だった。
ヤードは無関係と切って捨てたのだがな。」
「…無関係ではないと見ているのですね?」
「この写真を見たまえ。」
伯が2枚の写真を並べた。
1枚は件の医者であろう、人の好さげな細身の中年男性の写真、
もう1枚は検死の際に撮影したのであろう、ジャックの写真であった。
「…!これは。」
「君なら気付くわな。そう、『耳』だ。」
ようやく、この人らしい笑みと共に伯が応える。
ジュードーやレスリング等に於いて、いわゆる『カリフラワー』『耳が沸く』
状態になる事もあるが、基本的に外耳とは鍛える事が出来ない部位である。
写真を見る限り身体は変貌し顔立ちも面影すらないが、その耳は形と大きさ、
黒子の位置まで同一であった。
「人の身体をかくも変貌させると共に、その精神性を180度捻じ曲げる
術がある。そして今現在市井で囁かれている『噂』、な…」
「明らかに組織的な犯罪でありながら、ヤードばかりか私達にもその尾を
掴ませない相手、ですか。厄介なこと。」
香りの良い茶を頂きながら、一つため息をつく。
相手の目星が付かず、目的も分からぬ以上、『機関』もヤードと同様
後手に回らざるを得ない。
やりにくい敵であった。
「いずれにせよ、手をこまねいている訳にもいかぬ。
申し訳ないが、暫くは夜歩きしてもらう事になるな。
出会ってしまえば、君に対処出来ぬ相手ではないだろう。
他の者達にも伝えるが、駆除する以上に情報を持ち帰って欲しい。」
マーサは自らに匹敵する程の実力者でもあり、全幅の信頼から来る
言葉であった。
が、後に敵の全貌を知り得た時、ミウラ伯はこの時の見通しの甘さを
後悔する事になる。
・・・
再び、夜のロンドンを紺色のデイ・ドレスが往く。
ある程度的を絞り、比較的大通りの銀行や宝飾店等の警邏をする者と、
下町やスラムでギャングのアジト周りに張り込む者とに分かれ、
マーサを始め『機関』でも選りすぐりの猛者達が今夜も駆り出されていた。
三つ巴の戦いになる事も想定し、マーサはギャング周りの巡視を
担当する一人である。
(早い内に『当たり』を引きたいものだけれど…)
夜間巡視を始めて既に一週間になるが、どの組も襲撃にぶつかる事無く、
あまつさえ人員の配置から漏れた地域の宝飾店が1件、ギャングの
根城が2件襲撃されていた。
いっそヤードと連携出来れば、とも思うのだが、古今東西、警察機構と
防諜組織とは簡単に席を同じくする事が難しい様子である。
互いに立場があってな、と苦笑と共にミウラ伯がこぼしていた。
ままならぬものだ、と思いつつ裏通りを進むマーサの耳に届く
数名の男の悲鳴、そして銃声!
通りを駆け抜け、襲撃先と思しき建物に飛び込んだマーサの目に
凄惨な光景が映る。
濛々と煙が立ち込めているが、火の手はない。倒れ伏しているのは
皆ギャングであろう、一様に顔色が紫になり、喉をかきむしる様な姿で
絶命している者達は窒息しているのか。
更に数名の犠牲者は…全身が凍り付いていた!
(なんだこれは!?)
屋内で瓦斯はまずい、臨戦態勢を取りつつ出口に向かい後ずさる。
奥から一人姿を現したのは、やはりと言うべきか、青い肌の巨躯であった。
「なんと、なんと! ご婦人がお一人とは勇敢な事だ!」
如何にも驚き、また嬉しいと言った風情で異様な風体の巨漢が声をかける。
二股の道化師帽子にペストマスク、腰布一枚だが、二の腕と脛には
毛皮を巻き、手には革手袋を佩いている。
背負った鉄製のボンベの小窓から、何やら満たされた液体が見える。
ボンベから伸びた管の先には銃の様な口金があった。
「『切り裂きジャック』のお仲間、でよろしいのでしょうか?」
「あの様なすくたれ者と、この氷の道化師、『霜柱のジャック』を
同列に語るとは、物を知らぬご婦人ですなぁ。」
愉しいのか憤慨しているのか、判断しかねる口調で異形の巨漢、
『霜柱のジャック』が応える。
「我ら主様の志に賛同し、厳しい訓練を経て『怪力乱人』の域に達した
者と、訓練のさなかに逃げ出し、欲しいままに暴力を振るう獣とでは
天地の開きがあると言うものでございますぞ?勇敢なご婦人よ。
…おお!あの者は情けなくもご婦人に倒されたと伺いましたが、さては
貴女の手でありましたか!
ギャングどもの根城を潰す等、正直役不足の詰まらぬ仕事と思っておりましたが、
これは良い手柄が転がり込んで来たというもの!善哉、善哉!!」
(まずいな…)
道化そのものの語り口調で口舌を垂れながら、じわりじわりと間合いを詰める
この男は切り裂きジャックに見られた様な隙がない。
格闘技術ではマーサに分があるだろうが、訓練され体得した動きという物は、
その技量の範囲内とは言え決して侮れないものである。
動きそのものは素人のそれであった切り裂きジャックと同等の膂力と速度を
持つならば、積み上げた訓練の分だけ危険な相手と見るべきであろう。
そして…
バシュウッ
霜柱のジャックが構えた口金から液体が噴き出すと、
またも辺りに濛々と煙が立ち込め、液体のかかった所が凍る。
辛くも液体の直撃を躱し、屋外へ転び出るマーサ。
無敵の武術と思われた『バリツ』にも、しかし、明確な弱点が存在する。
無手の白兵戦術たるバリツは、中・長距離の面攻撃に対処する術が
ないのである。
それも矢弾の類であれば自身に向いた銃口を見、引き金を引く、或いは弓の弦を
放した瞬間の健が収縮する音から方向とタイミングを計り躱す事は出来る。
例え数人に囲まれていようと、点と線の攻撃ならものともしない。
だが、例えば油を掛け火を放つ、酸を掛ける、瓦斯を撒く、といった
面攻撃に対しては無力であった。
図らずも、謎の液体を吹きかける霜柱のジャックは
バリツ戦士にとっての天敵と言わざるを得ない、剣呑な相手であった。
(逃げを打つか?出来なくはない。だが、それではまた犠牲者が出るだろう。
しかもこの男、気になる事を言っていた。『主様』『怪力乱人』…
いや、戦う! そして…情報は持ち帰らなければならない!)
バリツの弱点を突く異形の『怪人』『霜柱のジャック』、
この恐るべき相手と対峙するマーサの運命や如何に!
「なんだこれは!」 映画タローマン、観に行きたいなぁ。
奇獣では『疾走する眼』が好きです。身は小さいが元気者、といった感じで。
ジャック・フロスト君、登場です。「ホ~」とか言いません。
彼の背負ったボンベの中身はぶっちゃけ液体窒素です。
19世紀初頭には製造出来てた様ですね。
実際には人体にぶっかけても一瞬で凍ったりはしないそうですが、
このお話ではそういうもんだと思ってくだし。
アイリッシュマフィアも本来はアメリカへの移民からなる
犯罪者集団を指して呼ぶものが大多数だそうですが、
黎明期にはイギリスにもおった様ですので、
こちらもそういうもんだと言う事で。
城内は岡本太郎を超リスペクトしております。