3.異常事態
確かに、グレイは公爵閣下は自領から出てこないと言った。
だけど…
(まさか、ご夫人もいないとは思わないじゃない!!)
グレイは行儀見習いと称して、公爵邸への移住を提案したのだ。
それなのに、公爵邸の女主人たる公爵夫人が不在だとは思わないわ……!
(それなら先に言っておいて欲しかった……!)
という思いと、
(いえ。もしそれを先に知っていたら、間違いなくお母様たちは許可を出さなかったでしょうね)
という感情が混ざり合う。
馬車に乗り込むと、グレイが私を見て答えた。
「母は甘いものが好きだ。そして父は、母が喜べば後はどうでもいい、というひとだ」
「どうでも……」
「そうだな。俺の父親と、きみの父親はよく似ている、と言えば伝わるか?」
「え……」
私は、思わず目を見開いた。
(……お父様と!?)
お父様とよく似ている、ということは──
私は目まぐるしく思考を働かせると、辿り着いた答えを口にした。
それはつまり。
「公爵閣下は、ご夫人を愛していらっしゃるのね……」
「一言で言うなら、そうだろうな。こっちは、きみの父親より随分極端な性格をしているが……ああ、そうだ」
そこでグレイは、何か思い出したように顔を上げた。
そして、首を傾げ、私を見た。
さらりと、その白髪が胸元に滑り降ちる。
「公爵家には俺しか子供がいない。グルーバー公爵家の直系は俺しかいないから、自然、嫡男が死ねば、爵位は親戚筋にいく。貴族社会では珍しい話だと思わないか?」
(それは……確かに)
ずっと、不思議に思っていたことだった。
グルーバー公爵家は歴史も古く、格式ある家柄。
それなのになぜ男児がひとりしかいないのだろう、と。
公爵夫妻はなかなか子が恵まれなかったのだろう。
彼らの子供はグレイしかいない、ということなのだから。
だけどそれなら、当主は愛人を持ち、男児を産ませる、というのが貴族の暗黙の了解だ。
(貴族にとって、最大の禁忌は家の血を絶やすこと)
直系男児以外が爵位を継承すれば、途端、格式が落ちるというもの。
(まあ、アシュトン伯爵家は継承させるほどの家柄でもないから、私が婿を取ることになっていたのだけど)
しかし、グルーバー公爵家ともあろう家がそうしているとは思いもしなかった。
私の沈黙をどう受け取ったのか、グレイはあっさりと言った。
その答えを。
「父が強行突破したんだ」
「……強行、突破?」
私は、彼の言葉を繰り返した。
上手く想像できず素っ頓狂な声を出すと、グレイが僅かに微笑を浮かべる。
してやったり、と言いたげな、悪戯っぽい笑みだ。
彼はこんな顔もするのね、と少し驚いた。
「口八丁手八丁、屁理屈に屁理屈を重ねてとにかく親戚どころか、王すらも言いくるめた。それが終われば、彼は俺を次期当主としてある程度使えるまで鍛えると、そのまま領地に籠ってしまった。それが、グルーバー公爵家の実情だ」
「……豪胆な方なのね」
驚きながらも相槌を打つと、グレイが楽しげに笑う。
このひと、ほんとうによく笑うようになったなぁ……。
「面白いだろ。おかげで俺は、次期当主として問題事を起こさない限りは、自由行動が許されている。王都の公爵邸で俺しか住んでいないのも、父上が俺に関与してこないのも、そこに理由がある」
「……あなたが公爵家嫡男の責務を果たしている限りは、閣下はあなたのすることに口を出さない、ということ?」
「ああ、そうだ。随分楽をさせてもらっている」
そう言うと、グレイは背もたれに背を預けた。
彼はあっさり言うけれど──それって、相当大変なことなんじゃないかしら……?
今まで、私はグレイが普段何をしているかなんて考えたことがなかった。
恐らく研究にかかりきりなのだろうと思っていたのだ。
だけど──
(彼は公爵家嫡男の義務も果たしていたのね……)
グレイの就寝時間は遅いようだ。
魔法学院から戻っても、夜遅くまで部屋の明かりがついているらしい。
そして彼は、朝も早い。
週に二、三回は私が朝食を摂るよりも先に家を出ることがある。
「……私にも、なにか、できることはないかしら?」
「きみに?」
その言い方は、『きみに何が出来る?』とか、そういった声音ではなくて。
ただ、驚いているようだった。
動揺しているようにも見える。
私は頷いて答えた。
「ええ。契約上とはいえ、私はあなたの婚約者になったのだもの。私に出来ることは、手伝わせて欲しいの。力不足かもしれないけれど……」
「いや、そんなことはない。実を言うと、きみの提案はかなり有難い。実はな」
彼は、静かに彼の事情を話し始めた。
それは、公的な場所に出る際、パートナーがいないと目立って困る、という話だった。
それを聞いた私は、ぽん、と手を打つ。
まさにそれは──
「私の出番ね!夜会にホームパーティー、確かにそれは、付き添いがいないと酷く目立つでしょうね。でも任せて。次からは私が同行するわ」
グレイのように若い男性がひとりで出席するのは、確かに目立つだろう。
婚約者がいる以上、他の女性を連れていくのも差し障りが出る。
今こそ、契約婚約者の出番というものだろう。
私は胸を張って、胸元に手を置くと言った。
「社交界はあまり得意ではないけど、頑張るわ。あなたの足を引っ張らないように」
私が言うと、グレイはホッとしたように笑みを見せた。
☆
というやり取りを経て、三週間。
王都からグルーバー公爵領のピュリフィエまではとても遠い。
船を経由しても、三週間という月日を要する。
私たちはピュリフィエにあるグルーバー公爵家の別邸に滞在すると、その足で採取へと向かった。
鉱石の採取は、グレイの案内もあり、何の問題もなく終えることが出来た。
別邸に戻ると、私は採取した鉱石で魔法水作り。
グレイは、彼が言っていた文献を探して出かけた。
異変はその日の夕方に起きた。
慎重に作成した魔法水がようやく出来上がった、と思った次の瞬間。
部屋の扉が、勢いよく叩かれた。
驚いて肩が跳ねる。
幸い、作り上げたばかりの魔法水を零したり、フラスコを倒したりはしなかったが──
私が扉に視線を向けると、この別邸のメイドと思しき女性が、焦ったように扉の外から声をかけてきた。
「大変です、アデライン様!!街が……街が……!!」
彼女の緊迫した声に、私は、この街に異常事態が起きていることを知った。