31.それとこれは話が別
「そういうわけで、今、我が家は家庭崩壊の危機なの……」
グレイの研究室、E-13のプレートが提げられている部屋を訪ねると、私は早々に彼に言った。
グレイは、研究の途中だったのだろう。
白の白衣をまとって、私を出迎えた。
「それは……また、大変そうだな」
「お母様はエーデルに発つ用意を着々と進めているわ。お父様は、お母様に話しかけようとして無視される、の繰り返し。アシュトン伯爵邸の空気は今、地獄よ地獄。使用人が不憫でならないわ」
「精神的疲労もありそうだな。先日、疲労回復のティーバッグをもらったんだが、いるか?」
「……ありがとう。お心遣い感謝します」
私がお礼を言うと、リリアが進み出て、グレイからティーバッグを受け取った。
私はグレイからソファを進められて、以前座ったそこに腰を下ろす。
本日は、前回と違い侍女のリリアも同席していた。
もうアンドリューとの婚約は解消されたのだ。
王女殿下も以前ほど警戒しなくていいだろう。
それに、彼女も今は、それどころではないと思う。
そのため、私はもう邸の使用人を、王女殿下の手の者かと疑う必要が無くなった。
リリアはグレイからティーバッグの入った小箱を受け取ると、頭を下げて部屋を出ていった。
これで、部屋には私とグレイのふたりだけになる。
しかし、扉はしっかり開かれているので、許容範囲内でしょう。
(それにしても──)
リリアがいなくなって静かになった部屋で、私は非常に、ひっ……じょ~~に居心地の悪い思いをしていた。
(だって、昨日の今日よ!?)
どんな顔をして会えばいいっていうのかしら……!!
思わず俯くと、グレイがいきなり本題に入った。
「昨日の話を覚えているか?」
何の前置きもなく話し出すものだから、私は思わず噎せそうになった。
「っ……お、覚えているわ。……突然ごめんなさい。驚いたでしょう」
昨日、閃いた時は本当に名案だと思ったのだ。
何なら、天啓のようにすら感じていた。
グレイの話を聞いて、深く共感したし、納得もした。
だからつい、考えてしまったの。
彼も、私と同じ考え方なら──今度こそ、上手くいくんじゃないかしら?と。
昨日はお酒も美味しかったから、ついグラスに口をつけすぎてしまったような気がする。
いえ、言い訳をするつもりはないのよ。
ただ、そう。
本来は、昨日、グレイが言ったようにもう少し長考した上で決めるべきことだっただろう。
(それを私、勢いに任せてしまった感が否めないわ……!!)
……しばらく、禁酒しよう。
いや、後悔しているとかではないのだ。
ただ、タイミングとか、その場の空気とか、もっとあったと思うの。
昨日の私はそれら全てを無視して、突然言い放ってしまった。
グレイもさぞ驚いたことだろう。
そう思っていると、私の近くのカウチに腰を下ろしたグレイが答えた。
「まあ、確かに驚いたな。正気か?と思ったよ」
「そうよね……」
「だけど、帰宅後。きみの言っていた言葉を考え、納得した。きみの言葉は、確かに理にかなっている」
グレイはそこで言葉を切った。
「俺ときみは、よく似ている。研究に対する興味の強さ、という点でな」
私は、静かに彼の話を聞いていた。
グレイはいつも通り、無造作にその白髪をひとまとめにしている。
彼は私を真っ直ぐに見つめると言った。
「総合的に判断した結果、俺は、きみの案に乗ろうと思う」
「え──」
「つまり、交渉成立だ。アデライン・アシュトン」
私は、自分から持ちかけた話だと言うのに、グレイの返事にとても驚いた。
思わず、目を見開く。
言葉を失う私に、グレイが眉を寄せる。
「何だ?それとも、もう昨日の話は無かったことにしたいと?」
「え!?いえ、そういうつもりではないわ。ただ……いいの?と思って」
「何がだ?」
「婚約のこと。こんな……簡単に決めてしまって。昨日は、勢いに任せて言ってしまったけれど、あなたは由緒正しいグルーバー公爵家の嫡男でしょう?閣下のご許可とか」
「ああ」
グレイは、それで私の言おうとしていることを理解したらしい。
彼は足を組むと、あっさりと言い放った。
「言っただろう。グルーバー公爵家は放任主義なんだ。基本、俺のすることに父上は何も言わない。婚約も、そうだな。よっぽど相手に問題がない限りは何も言ってこないんじゃないか」
「問題……」
「例えば、相手が平民の女だったり、身持ちの悪い女だったり、家に借金を抱えていたり……と、まあ、社交界の連中が好みそうな噂話になる相手、ということだ」
なるほど……。
それなら一応、私はお相手としてクリアしている、ということでいいのかしら……。
歴史の浅い家とはいえ、私は貴族の娘だ。
異性と懇意になったことだってない。
男女のスキンシップは結婚してからだとお母様に教わっていたのもあって、私はアンドリューとキスすらしたことがなかった。
そこで、ふと、私は思った。
アンドリューの不貞は、私にも責任の一端があるのだろう。
今になってそんなことを思う。
いえ、今だからこそ、だろうか。
アンドリューは、私が自分を好いているとは思わなかった、と言った。
グレイも似たようなことを口にしていたし、恐らく、そう思われる私の態度にも問題があったのだろう。
それに、私は彼の口付けを拒んでいた。
そういった行為は結婚してからするものだ、と思ったから。
その理由ももちろんアンドリューには伝えていたけれど──彼としては、つまらない思いだっただろう。
婚約者なのに、手を繋ぐことしか出来ないのだから。
それが理由で彼は他所に目を向けたとは思わないが、少なくとも理由のひとつにはなっただろう。
だけど、やっぱり。
(不満と不貞は話が別よね……!!)
例え、思うところがあったとしても、この婚約は契約だったのだ。
アンドリューもそう言っていたじゃない。
それなのに、その婚約自体を白紙にする行為に及んだのは、申し訳ないけれど阿呆だと思う。
そんなことを考えていると、リリアが戻ってきた。
ふんわりとした香りは、ハーブのもののようだ。
彼女は、ワゴンを押して部屋に入ってきた。
「……ラベンダー?」
「正解。ラベンダーと他にいくつかのハーブ。それと蜂蜜に、シナモン、カルダモンといったスパイスを複数調合しているらしい。説明書があったはずだ。後できみに渡す」
グレイが答えたところで、ティーセットが配膳された。
「それで──話を戻すが、伯爵夫人がエーデルに出立するというのはもう決まった話なのか?」
グレイの言葉に、ハーブティーの香りを楽しんでいた私はハッと顔を上げた。
それから、ゆっくり頷いて答える。
「お母様は本気よ。既に船のチケットを手配しているわ」
そう、私とアンジー、そして自分の分の、計三枚。
お母様は本気で、私とアンジーを連れてセイクレッドを出ようとしている。