29.実家に、帰らせていただきます
翌日、朝食の席に向かうと、そこは氷のように冷たい空気が広がっていた。
一体どうしたのだろうと思いながら、食堂に足を踏み入れる。
「おはようございます。お母様、お父様」
朝の挨拶をすると、お母様はにっこり笑って私に挨拶を返した。
「おはよう、アデル」
「……おはよう、アデル」
そして、お父様は顔を青ざめさせたまま意気消沈とした様子で言った。
その対照的な反応に、まだ夫婦喧嘩は続いてるのね……と、そう思ったのも束の間。
開口一番。
お母様がとんでもないことを言った。
「実家に、帰らせていただきます」
「──」
へっ……!?
椅子に座ろうとして、固まった。
驚いてお母様を見るが、しかしその目は本気だった。
決して、冗談で言っている様子ではない。
(……これは、まずいのでは?)
このままでは、お母様はエーデルに帰ってしまう。
お父様を見ると、それはもう、目も当てられない程に彼は動揺していた。
「待っ、待ってくれ!!ユーリッ」
ガチャンッとお父様の手がテーブルの上のティーカップに当たって、大きく音を立てる。
テーブルにぶつかりながらも、お父様はお母様に言い募った。
「確かに、あれは僕が悪かった。本来、僕はアデルを守らなければならない立場であったのに、攻めに出なかった。臆病に逃げてしまったんだ。それはきみの言う通りだ。だけど!」
「あら、答えは出ているんじゃありませんの。そういうわけで、アデル?わたくしと一緒に、エーデルに行くわよ」
「ユーリカ!!」
「…………」
(え、ええ……!?!?)
お父様の悲痛な声が、静かに食堂に響いた。
(私が……エーデルに……!?)
私は、数秒してお母様の言葉を理解した。
お母様は、もはやお父様の言葉に取り合うつもりはないのか、食後の紅茶に口をつけていた。
私は恐る恐る、彼女に尋ねる。
「お母様、それは本気なのですか?」
「もちろん」
お母様は当然のように頷いてみせた。
(そうよね……)
お母様は、そういった冗談を言わない方だ。
思わぬ展開に戦々恐々していると、私の懸念をどう受け取ったのか。お母様が安心させるように言った。
「安心なさい。後でアンジーにも伝えるつもりだから。お母様が、あなたたちにピッタリな婚約を整えてさしあげますからね。もう、二度とこんなことがないように、ね?」
「ユーリカ……!!」
お父様はまた叫んだが、お母様の反応はやはりない。
「…………」
気まずい沈黙が漂う。
あまりの空気の重さに、食事の配膳係が入口付近で入室を躊躇っているのが見えた。
気持ちは、すごくわかる。
私も許されることならこの場を退室したいくらいだもの。
私は、朝で鈍い思考回路を何とか動かし始める。
(つまり……つまり、よ?)
私がエーデルに行く……ということは。
チク、タク、チク、タクと、思考すること数秒、至って簡単な、そして当たり前な回答に行き着いた。
(私、もう魔法学の研究ができなくなってしまうということ!?)
それに気がついた私は、愕然とした。
(そ、それは絶対に嫌だわ……!!)
だけど、お父様とふたりで残るのも、それはそれで、差し障りがある。
お母様も絶対に反対するはずだ。
それに、アンジーと離れたくもない。
(どうしたら……)
いや、その前に、よ!?
どうしてこんなことになっているの!?
お父様は昨日、お母様と話をしなかったのかしら!?
咄嗟にお父様に視線を向けると、しかしお父様はお父様で何か考えていたらしい。
彼は、パッと顔を上げると叫ぶように言った。
「それなら、僕もエーデルに移住しよう!!」
「はあ!?」
驚きのあまり、思わず声を上げる。
お母様が、少しして言った。
「お断りだわ。あなたの移住は認めません」
「いいや、僕も行く。……ユーリカ、どうか許して欲しい。アデル、お前もだ」
「え……?」
名前を呼ばれ、突然許しを請われた私は、戸惑ってお父様を見た。
お父様は私を見ながら、眉を寄せ、言った。
「僕は……僕がしなければならないことをお前に押し付けてしまった。それを許して欲しい、アデル」
「それは──」
私がなにか答えるより先に、お母様がそれを鼻で笑い飛ばした。
「わたくしに言われてする謝罪に、何の意味があって?アデル、聞かなくていいわよ」
「お母様……」
お父様とお母様の板挟みになった私は、困惑に声を出した。
今ここにアンジーがいなくてよかった。
いえ、いないからこそ、お母様たちはこの話をしているのだろう。
お父様もお母様も、まだ八歳のアンジーの前では、口論は絶対にしないからだ。
お母様はゆっくり紅茶をソーサーに戻すと、キッパリと言った。
「ロッドフォード公爵への恩義があるのは分かりました。私が気になるのはその後よ。なぜ、その後始末をアデルがしなければならないのかしら?あなたの言う通り、あなたがするべきでしょう」
「…………」
お父様は返す言葉もないのか、沈黙してしまった。
またもや、重い空気が食堂に広がった。
それは息が詰まるほどで、配膳係のメイドがそっと、私たちから視線を逸らしたのがわかった。
☆
その後、アンジーが食堂にやってきた。
それで、その話は一時中断となったのだ。
やはり、お父様もお母様も、まだ幼いアンジーの前で諍う様子は見せたくなかったみたい。
そのことに、心底安堵した。
もしアンジーが来ても口論を続けるようなら、私が連れ出さなければならないと思ったから。
その後はぎこちないながらも朝食をとり(お父様は屍のように静かだった)今、私は自室に戻っている。
ライティングデスクの前に座り、広げるのは一通の便箋。
宛先は、アンドリュー。
これが、お母様の言う【後始末】で、お父様が、しなければならなかった、と言っていたもの。