28.互いを裏切らない、という契約
お酒と食事をじゅうぶんに楽しんだ後、場は解散となった。
王太子殿下は自室に戻ることとなり、私はグレイとともに、馬車留めへと向かう。
夜会は既にお開き。ほとんどの参加者は既に帰宅したようで、真夜中の王城は人気がなかった。
ぴゅう、と冷たい夜風が吹き、思わず肩をすくめる。
その様子に気がついたのだろう。
グレイが私に言った。
「俺の上着でいいなら貸すが、着るか?」
「大丈夫よ。お心遣いありがとう」
お礼を言ってから、ふと、私は先程のことを思い出した。
グレイの言葉を聞いて、妙案が浮かんだのだ。
もし、彼がこの提案を呑んでくれるなら──今後、今回のような問題が起きることはもうないだろう。
(恋も、愛も、もう信じない。信じられない)
信じられるのは、そういった浮ついた感情を抜きにした、客観的な評価だけ。
信じる理由が相手への恋情だけなのは、あまりに危うい。
恋や愛といった感情は、時に、本来の光景とは違うものを見せるものだから。
正常な判断が失われることだってあるだろう。
今回の、王女殿下のように。
元から王女殿下が変わっていたのか。
それとも恋情が彼女を狂わせてしまったのか。
それは分からない。
だけど、私はもう二度と、浮ついた感情だけでひとを信じることはしないと、そう決めた。
だから──。
王城の静かな回廊を歩いていた私は、その時、足を止めた。
隣を歩いていたグレイが、少し先で足を止めた。
彼が、いつもと同じような無表情で私を見る。
「どうした?」
「……ねえ、グレイ」
私は、静かに声を出した。
人気のない廊下は、よく声が響く。
後ろには、私の侍女、リリアが控えている。
だけど、私は構わず言った。
「私と、婚約しない?」
「…………は?」
グレイが、驚きに目を見開いたのがわかる。
背後のリリアも、息を呑んだようだった。
だけど名案だと思ったの。
何も、その場の感情で言っているわけではないのよ。
私はゆっくりと、なぜその考えに思い至ったかを説明した。
「私は、婚約者には誠実さを求めたい。私だけを愛して欲しい、なんて言うつもりは無いわ。ただ──ひとつだけ約束して欲しいの。私の信頼は裏切らないで欲しい。影で馬鹿にされるのも、余計なトラブルに巻き込まれるのも、どちらも絶対に嫌」
私の衝撃的な言葉に、思うところはあったはずだ。
それでも、ひとまず彼は私の話を聞くことにしたのだろう。
グレイは、頷いて言った。
「そうだな。俺も同じだ」
「ええ。だから私は、契約するならあなたがいいと思ったのよ」
「……契約?」
そこで、グレイが首を傾げた。
今日はしっかりと編んだ白髪が、するりと首から滑り落ちる。
宵闇にあってなお、輝くような紅色の瞳を見ながら、私は言った。
「婚約や婚姻は、一種の契約だわ。信頼を裏切れば、有責で、相手は損害賠償を求めることができる」
私は、その権利を手放したのだけれど。
だけど、その代わり、国王陛下に私の希望を叶えてもらった。
もちろんそれは、アンドリューと彼女たちの婚約について。
私は言葉に悩み、少しだけ躊躇ってから口にした。
「……女性から言うのは、はしたないわね。だけど、グレイ。これはとても合理的だと思うのよ」
「合理的、というのは?」
「私は、不貞はしないわ」
私は、はっきりと言った。
やはり、静かな回廊にはよく響く。
グレイは、私の言葉を聞いても表情を変えることはなかった。
「私は魔法学にかかりきりで、それどころではないもの。魔法学の研究を進めながら、不貞をするほど暇でもないの。そして、それはあなたもで同じでしょう。少なくとも、魔法学院で見たあなたは、そういうひとだわ」
これは契約。
互いに、不貞をしない、というだけの。
愛や恋は二の次だ。
もっとも大切なのは、自分の名誉を守ること。
自分の平穏を守ること。
だから、私は提案した。
二度と、今回のようなトラブルに巻き込まれたくないから。
私の言葉に、グレイは瞬きを繰り返した。
その後、彼は僅かな沈黙の後、同意した。
「……確かに。一理ある」
しかし、彼は続けてこうも言った。
「だけど、この手の話は今すぐ答えを出すものじゃないだろ。色恋には疎いが、俺にもそれくらいはわかる」
「ええ、そうね」
彼の言う通りだ。
私は頷いて答えた。
「返答は後日、改めてさせてもらう。今日は酒も入っているからな」
彼らしい返答だ。
その慎重さは彼の長所だと思う。
私はまた頷いて答えた。
これは契約。
互いを裏切らない、という契約婚約。
足を止めていた私は、タッ、と歩を進めた。
そして、彼の隣に並び、グレイに声をかける。
「それじゃあ、帰りましょうか」
「そうだな。長居すると風邪を引く」
グレイも同意し、私たちはそのまま馬車留めへと向かった。
まるで、先程まで自分たちの婚約の話をしていたとは思えないほど、いつも通りに。
世間話を交わしながら、私はホッと胸をなでおろした。
グレイに気付かれないように、安堵の息を零す。
(とりあえず、切って捨てられなくて良かったわ……)
もしかしたら『有り得ない』の一言でバッサリ断られるかもしれないと思ったのだ。
どうやら私は、自分でも気付かないほどに緊張していたらしい。
恋愛感情はないとはいえ、やはり、女から婚約の提案をして断られたら、恐らく相当気まずかったと思う。
貴族の女性が、自ら婚約を打診するなんて、少なくとも私は聞いたことがない。
貴族の女性は、恋の駆け引きを用いて、相手に告白させるのが一般的だから。
(大胆なことを言ってしまったわ……)
遅れて、心臓がバクバクと音を立てる。
だけど、口にしてしまったことの後悔はなく、むしろ、すっきりとした気持ちだった。
しかし──アシュトン伯爵邸に帰った、翌日。
グレイの答えより先に、私は思いがけないトラブルに見舞われることになる。