1.嘘をついていたの?
なぜ?
どうして?
そんな言葉ばかりが頭を巡る。
今、私の目の前にいる男性は私の婚約者だったはずだ。
そして、今まさに彼は私では無い女性を抱きしめ──愛を、囁いていた。
「僕が本当に愛しているのは、あなただけだ。だからどうか待っていて欲しい」
「本当に?私もう待てないわ。いつ、あなたは彼女と婚約を破棄するの」
抱き合う男女の姿を、偶然。
そう、本当に偶然見てしまった私は──悲鳴をこらえるために、口元に手をやった。
(……どうして?だって)
王女殿下とは、特別な関係ではない、って。
あなた、そう言ったじゃない──。
どれほど呆然としていただろうか。
その時、私の肩を叩いたひとがいた。
驚きのあまり声を上げそうになったところで、彼は口元に指を押し当てた。
静かに、ということらしい。
「あなた……」
私は、僅かに目を見開いた後──彼の誘導に従い、その場を離れた。
今日、私は婚約者の叔母様に頼まれて、彼に届け物をする最中だった。
私の婚約者は、王女殿下の近衛騎士を務めている。
私はそれをずっと誇らしく思っていた。
彼が頑張っているのだから、私も頑張ろうと趣味と実益を兼ねた魔法研究に力を入れていた。
だけど、今、私が見たものは──。
どう、見ても。
不貞行為の現場だった。
☆
私が連れていかれた先は、回廊を抜けた先。
城の裏手の、庭園に繋がる場所だった。
この先は、王家の森に続いており、立ち入りは厳しく禁じられているため、この辺りは人通りが少ない。
私をここまで連れてきたのは──
「……久しぶり。まさか、あなたとこんなところで会うなんて思わなかったわ」
王女殿下の婚約者であり、グルーバー公爵家の嫡男、グレイ・グルーバー。
私と同様に魔獣研究に精を出している変わり者である。
彼はちらりと私を見ると、パッと私の手を離した。
それから、言葉に悩むようにしながらも彼は言った。
「……さっきのは」
「どう見ても、不貞の現場でしょう?……知らなかった。あなたは、知っていたの?」
先程の動揺で、上手く言葉が出てこない。
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
私は、私の婚約者──アンドリューと出会ってからこの三年。
ずっと、彼のことだけを見てきた。
信じ続けてきた。
それなのに、影で彼は他の女性に心を移していたのだ。
裏切り、とかそれよりもショックだった。
衝撃だった。
しきりに瞬きを繰り返すと、目の前のグレイは苦笑した。
「……俺は、知ってたよ」
「それなら、どうして」
どうして、抗議しないのか、という問いは彼に正確に伝わったようだった。
「婚約解消も考えたけど、グルーバー公爵家から申し立てるのはどう考えても無理だ。王女とその近衛騎士の恋愛なんて、特大スキャンダルもいいところだからな。どうあっても王が潰すだろうし、父上もその話を奏上すること自体、避けるだろう」
確かに、その通りだ。
こんなの、明るみになったらとんでもない問題になる。
グレイは、さらに言葉を続けた。
「だから俺は、受け入れようと思った。王侯貴族の結婚ならそういうこともままあるか、ってね」
何を、いえばいいのだろう。
そうね、私もそうするわ、って?
そんなの、言えない。
だって私、まだ、混乱してる。
黙りこくる私に、グレイは申し訳なさそうに言った。
「きみは……そうもいかなかったんだな。悪い、もっと早くに伝えておけばよかった」
「……どうして、あなたが謝るの?」
彼は、被害者だ。
私と同じ立場なのに。
俯く。涙が、零れないように。
こんなところで泣くなんて、絶対に嫌だった。
グレイの落ち着いた声だけが、今の私の救いだ。
少しだけ、平常心を取り戻せる気がしたから。
「……俺は既に知っていたからな。だけど、きみは知らなかったんだろう?きみが、あの男を好きだとは知らなかったから、知ってもそうショックは受けないだろうと、勝手に思っていた」
「…………」
「俺が知った時点で、知らせればよかったとそう思ったんだ」
好きだとは、思わなかった。
だから、ショックは受けないと──。
確かに、今まで私は魔法学の研究に没頭してきた。
そう思われても、仕方の無いことなのかもしれない。
そう思うと、少し、笑う余裕が出てきた。
涙を瞬きで振り払って、私は顔を上げた。
涙は見られたくない。
彼に、泣いていたことが気付かれませんように。
祈るように、私は笑った。
「……相変わらず、あなたは変わってるわね」
笑うと、グレイが少しホッとした様子を見せたので、成功したことを知る。
それと同時に、ようやく、私はこの恋が夢に終わったことを知った。