第8幕・迫り来る脅威
僕が異世界に転移してから1時間―――。
僕は就職の為にハローワークを訪れ、受付から90km離れた92,374番カウンターへと案内された。
…何を言っているのか分からないと思うが、僕も何を言っているのか分からない。
――あれからどれ程歩いただろう。
ふと横を向くと、無数に並んでいるかのように思えるカウンターの一つに"13,084"という数字が見えた。
…心が折れそうだ。いや、心より先に脚が折れるかもしれない。
90kmといえば、大体東京から宇都宮位の距離だ。…餃子が食べたくなってきた。
…他の例えを用いると、軽くフルマラソンの倍以上の距離だ。
到底徒歩で行ったり来たりできるような距離ではない。
…元の世界に居た頃、学校のPCでこっそり読んだ異世界ものラノベの数々を思い出した。
主人公が異世界に迷い込んで早々、危険なダンジョンや大いなる試練に挑む――という流れは割とテンプレだが……ハローワークにそんな要素は求めていない…!!!
…ちなみにこの長距離移動、何がキツいかと言うと…そう、景色が変わらないのである。
何処まで歩いても、見えるのはただ真っ直ぐに伸びる廊下と、無数に並ぶカウンター、待機用のベンチ、時々自販機……
この景色が変化する事は一切無い。
まるでThe backroomsや8番出口といったリミナルスペースを彷彿とさせる…そんな空間だ。
これが屋外だったならば、木々のざわめき、川のせせらぎ、虫や鳥の鳴く声、都会の喧騒……変化する景色や環境を感じながら歩く事ができる。同じ90kmでも、踏破する上でのモチベーションはここより高く保てた筈だ。
「どうだヨシヒコ君、疲れてはいないか?」
僕の数歩先を歩くリカブさんが、振り向いて言った。
「つ…疲れてます…」
「そうか、頑張れ!」
リカブさんは右腕を振り上げてそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
何の為に聞いたんだよ…!?
「しかし…移動するだけと言うのは退屈な物だな…。」
「ええ…本当に…。」
「…丁度良い。ヨシヒコ君、何か私に聞きたい事はあるか?ここに来たばかりで、分からない事も多いだろう?」
「聞きたい事……う〜ん……」
リカブさんの急な問いかけに返す言葉が浮かばず…僕は俯いて唸った。
「ハッハッハ、急に言われても答えにくいか。」
「あっでも、一つ聞こうと思ってた事が…。」
「ほう…何だい?」
リカブさんは歩みを止めないまま答える。
「あの…リカブさん、戦士をしているって言ってたじゃないですか…。
戦士って何をする仕事なんですか…?僕の居た世界じゃ馴染みが無くて…。」
「ふむ…普段は自警団のように、街中で起きた犯罪を取り締まる事が多いが…」
…そこまで言うと、リカブさんは俯いて、顎に手を当てている。
「多いが……?」
「…今回私は、"人類の危機"に立ち向かう事になるかもしれない。」
…彼の口から飛び出したのは、かなり飛躍した話題だった。
「え?人類の危機…?」
僕は若干、戸惑いながら呟いた。
「まあ、異世界人である君が知らないのも無理はない。…順を追って説明していくぞ。先日、辺境の集落である事件が起きた。」
「事件?」
僕の疑問を察するように、リカブさんは少し間を置いて話し出した。
「…集落に住むおよそ60人…その内のほぼ全員にあたる、50人以上が殺害された…惨殺事件だ。」
…彼の口から出たのは、思いもよらない凄惨な内容だった。
「なっ…一体誰が…そんな酷い事を…!?」
「…集落の民家の中に、犠牲者の血で綴られた犯行声明があった。」
「……声明の主は、"魔王軍"。」
"魔王軍"…。元居た世界では、ファンタジー作品で馴染み深かった単語だが…まさか、この世界には実在するのか…?
そんな事を考えつつ、僕はリカブさんに問いかける。
「…リカブさん、魔王軍というのは…?」
「魔王軍は、"人類滅亡"を掲げて破壊行為を行う、"モンスター"と呼ばれる怪物達によって組織された軍団……らしい。」
やはり"魔王軍"の名の通り、物騒な集団のようだ。
…モンスターも怪物も、同じ意味な気がするが…さておき、リカブさんの回答はどこか自信なさげだ。
「"らしい"って…まだハッキリしてないんですか?」
「うむ…実は魔王軍は、200年以上前に衰退し、活動を停止していた。我々からすれば、魔王軍の脅威は過去の物だったのでな…。」
…何だか段々それらしい話になってきたな…。200年…壮大な年月だ。
僕が呆気に取られている傍で、リカブさんの深刻そうな表情が目に付いた。
「そして…魔王軍を統べる者であり、人類から安寧を奪い、世界の平和を脅かす諸悪の根源…それが、"魔王"だ。」
…話を聞いている内に、ここに来る前にリカブさんが言っていた言葉を思い出した。
「もしかして…リカブさんが言ってた、"これから忙しくなる"っていうのは…」
「…察しの通りだ。"魔王の復活"…これは国…いや、世界規模の混乱に繋がりかねない。だから各国で魔王討伐に向けて戦力を募る動きが進んでいる。…だから私も先日、魔王討伐隊に志願した。来月には私も、魔王軍の連中と剣を交える事になるだろう。」
…リカブさんは落ち着いた、かつ真剣な声色で、廊下の先を見つめながら話している。
どうやら彼の話を聞く限りだと…この世界は重大な危機に瀕しているようだ。
(…というかコレ、元の世界に帰るどころの話じゃないのでは?)
ふと頭に不安がよぎる。この世界の危機…それは僕にとっても他人事ではない。魔王軍の破壊活動に巻き込まれる可能性だって有り得るのだが……
まあ…今は深く考えないでおこう。元の世界に帰る方法が分からないどころか、それを探る余裕すら無いとなっては、気持ちがひたすらに萎えてしまうだけだ…。
「おっ、話している内に大分進んだな。もう14,837番カウンターを通り過ぎたぞ!」
…先の長さを知った瞬間、気持ちがひたすらに萎えていくのを感じた。
肩を落としながら歩む廊下の景色は、会話を始める前と変わらないままだ。
・ ・ ・
あれからどれだけ経ったのだろう。
既に脚の感覚は消え去り、止まるという概念すら失われたかのように、僕は歩き続けている。
この施設には窓が見当たらず、今が朝なのか、夜なのかは分からない。それも相まって気がおかしくなりそうだった。
「はぁ……はぁっ……脚が……」
「頑張れヨシヒコ君!もう少しだ!」
顔を上げると、リカブさんが僕を励ましてくれている。
彼の表情…そして姿勢には疲れひとつ見えない。背筋が曲がりきった挙句ひっくり返った"J"みたいになってる僕とは大違いだ。
「って…もう少し…?」
疲労しきった脳が、彼の言葉を漸く処理し終える。僕は右を向いた。
「…91,853番…カウンター…!!!」
"もう少し"。それは偽りの無い言葉だった。
目的地は92,374番…距離に換算すれば1kmを切っている。
現在地を確認する余裕さえ無かったからこそ、唐突に見えた光に、感涙さえ溢れ出しそうな思いだった。
「…これって…もう到着って事ですよね!?
やったぁーーーッ!!!」
抑えきれない喜びは、いつの間にか反響する叫びに変わっていた。
長い旅に見えた終着点に、一刻も早く辿り着きたかった僕は、床を強く踏みしめ、走りd
「――痛ァァッ!?」
…突如として、脚に鮮烈な痛みが走った。
大腿から脹脛…足の裏までを縛り付けて、内側から突き刺す様な――
「…筋肉痛だな。日常的な運動量を軽く超える程に歩き続けたせいだろう。」
前方に倒れ込んだ僕を観察しながら、リカブさんは冷静に言った。
「ヨシヒコ君、無理はしない方が良い。ラストスパートこそ慎重に、ゆっくり歩いていこう。」
「わ…分かりました…。」
僕はリカブさんが差し伸べた手を取り、立ち上がろうとした――
――次の瞬間。
「…やっと見つけ……見つけたぞォォォ!!!!!」
僕達の背後から、小刻みに響く足音と叫び声が聞こえた。
――振り向いた先には、目を血走らせ、奇怪な動きで疾走する、4番カウンターの職員の姿があった…!!!
「そのTシャツを…寄越せぇぇぇぇぇ!!!」
「――さっきの職員だぁぁぁあ!?」
――なんて執念だ…!あの職員は…90kmも僕達を追い続けていたのか…!?
驚くべきは執念だけでなく…その体力もだけど、とにかく今は……
(…逃げないと…!)
僕は床を踏みしめ、走り出そうとした――
――が、そんな事は、疲労しきった身体が許さない。
3秒先の僕は、床に手をついたまま動かなくなっていた。
「――危ないッ!!!ヨシヒコ君!!!」
背後からリカブさんの声が聞こえた。
途端、辺りが暗くなった。
――振り向くと、両腕を伸ばして宙を舞い、頭上の蛍光灯の光を日食の如く覆い隠す職員の姿があった。
「…そのTシャツは…俺のモンだァァァァァ!!!」
To Be Continued