第4幕・嵐の夜
その日は小雨が降っていた。
傾いた日の光が、ほのかに雨雲を赤く照らし、また雲の隙間から漏れ出していた。
軋む音と共にドアが開く。
「あっ、班長、お疲れっす。」
旧第3理科室に足を踏み入れた秋葉に、通谷が声を掛けた。
「…通谷、ヨシヒコ君は来てる?」
暗い表情のまま、秋葉が答えた。
「いや…来てないっすけど…。」
「そう……。」
秋葉は俯きながら、静かに呟き、そのまま席へと着いた。
静寂の中、雨粒が窓に当たる音だけが、部屋に響き渡る。
秋葉は虚ろな目で、薄く光る手の爪を見つめる。
「…班長…誰なんすか?昨日の…ヨシヒコを引き抜こうとしたアイツ…。」
通谷は静寂を割るべく、秋葉へ問い掛けた。
秋葉は埃被った机を眺めたまま答え始めた。
「昨日のアイツは…"氷継 鋳火"…。私達の1つ下の後輩よ。」
「へぇ…1つ下の後輩っすか…。」
通谷が納得した様子で呟く。
「1つ下の後輩…1つ下……後輩……?
………ぇえッ!?アイツ後輩だったんすか!?
生意気過ぎるっしょ!?俺ら先輩に向かってぇ!」
通谷は冷や水を被せられたかのように飛び上がり、コメディ漫画なら目が飛び出すであろう勢いで驚きを露わにした。
「あぁ…気づいてなかったのね…。別れ際に私達を先輩呼びしてたと思うんだけど……」
(「精々引退まで頑張ってね〜?"先輩"。」)
_スバァンッ!!!
言葉が途切れるとほぼ同時に、秋葉は右手で机を殴りつけた。
「班長!?」
「…いや、何と言うか…思い出したら腹立ってきて…。」
左手で肘を着いて、額を抱えながら秋葉は呟いた。
「班長!そういう時こそアンガーマネジメントっすよ!6秒…」
「…そのネタはもういいのよ…!」
「ネタ…って……えっと……ハイ…。」
調子良く提案を述べた通谷は、秋葉の怒気に気圧され、そのまま黙り込んだ。
「話を戻すわ…。
アイツ…氷継は、中2にして部内でかなりの功績を残してる…所謂"天才"よ…。先月には、町内の生態系をほぼ独学で調べ上げて、噂になってた新種のキツネの存在を証明したりもしてたわ…。」
秋葉は苛立ちを抑えきれない様子を見せつつ、語り出した。
「…あ〜…ぅうん…?
…あぁ〜!新種のキツネっすね!そういえばニュースでやってたっすね〜!ウチの学校の奴だったんすか〜!」
飄々とした態度で通谷が言う。
「通谷、アンタ…知らなかったの…?」
「ええ。俺、他人の功績には興味無いんで。」
一転して、毅然とした態度で通谷が言う。
「良い性格してるわね…アンタ…。」
呆れた様子で秋葉が言う。
「あざっす!」
「褒めてないわよ…!」
一転せず、余計に呆れた様子で秋葉が言う。
「とにかく……アイツは功績もある分、顧問にも顔が効く…。アイツが顧問に掛け合えば、ヨシヒコ君を氷継の班に移動させる事だってできてしまうわ…!」
机の縁に爪を立てながら、秋葉は話し続ける。
「う〜ん…」
通谷が首を傾げて短く唸る。
「…でも、ヨシヒコがそんな易々とウチの班を捨てたりするんすかねぇ?」
少し間を空けて、通谷は疑問を投げ掛けた。
「…通谷、冷静に考えてみて。」
「…?」
秋葉の返答に、通谷は再び首を傾げた。
「…他の部員に後ろ指差されながら、古汚い部室で埃被った実験道具を漁る毎日か…それとも、優等生のスカウトの下、期待の眼差しと、円滑な活動のための施しを受けながら送る毎日か…選ぶとしたら、どっち?」
「えっ…」
秋葉の言葉を受けて、通谷は硬直する。
雨足はより強くなり、雲が沈みゆく日を完全に覆い隠す。
「"ヨシヒコ君には、選ぶ事ができる。"」
「"選べる立場にいる。"」
雨音とリンクするように、秋葉は語気を強めてそう言った。
「……それって…。」
通谷の反応を前に、秋葉は静かに頷いた。
「…ヨシヒコ君はもう、ここに来ないかもしれない。」
言葉とほぼ同時に、突風が吹いた。
窓枠は軋み、貼り付いていた雨粒は、次々とどこかへ流されていった。
__放課後を告げるチャイムが鳴った。
・ ・ ・
廊下の窓々が、雨降る景色を映し出す。
ドタドタと床を踏み鳴らす音が響く。
雷が落ちた。
廊下に光が飛び込み、辺りが真っ白に埋まる。
靴底が床板と擦れる音が立て続けに鳴る。
遅れて響いた雷鳴が、その音を上書きしたのを最後に、床も、靴も、その鳴りを潜めた。
「……道を開けてくれ…。」
「…"イルカ"。」
立ち止まったヨシヒコの目の前には、氷継鋳火が立っていた。
「…この先は旧理科室。ここを通ろうとしたって事は……。
…私の提案は…受けてくれないんだね。」
氷継は冷たい目をしたまま、微笑んで言った。
「…僕の活動場所は旧第3理科室なんだ。先輩達も待たせてる…通してくれよ。」
ヨシヒコは、真っ直ぐ氷継を…そしてその後ろにある旧理科室の扉を見つめて言った。
「…それで…いいの?ヨシヒコ君……」
「…?」
ヨシヒコは眉を顰めつつ、氷継の話に耳を傾け続ける。
「…旧理科室に与えられた環境では、碌な成果なんて上げられない…。元の理科室に戻るチャンスはほとんど無いんだよ…?」
「…それでも…僕は先輩達とやって行く…そう決めたんだ…!」
ヨシヒコは雨音を掻き消すが如く、声を上げた。
「先輩って…あの短期な女?
…あんな人について行こうとしてるって事?」
「……。」
氷継の言葉に、ヨシヒコは何も返さない。ただその目元だけが僅かに震えている。
「…私はね…"あの人達"がどんなに蔑まれたって…埃被った部屋で苦しんだってどうだっていい…。ただヨシヒコ君…君があの人達に巻き込まれて、一緒に苦しんでるのが許せないの…!」
降り止まない雨のように、氷継は話し続ける。
「…あんな無鉄砲で向こう見ずな女の元じゃなくて、私と一緒に活動しようよ…!だってヨシヒコ君は__」
「…いい加減にしてくれ!!!」
ヨシヒコは声を荒らげて叫んだ。
氷継は目を丸くして立ち尽くしている。
「僕は…先輩達の常識を疑う姿勢に…その大胆さに惹かれたんだ!何も分かってない癖に…勝手な事を言うな!」
ヨシヒコの怒声が廊下中に響き渡る。
「…退いてくれ!」
ヨシヒコは氷継を押し退けて、そのまま廊下の先へと走り出した。
「…そっか……分かったよ。ヨシヒコ君…。」
氷継は、走り去るヨシヒコの背を眺めながら呟いた。
「…でもね…ヨシヒコ君…、私は…諦めないからね……。」
・ ・ ・
ガラガラガラッ!
「通谷先輩!班長!遅くなりました!」
扉の開く音が響くと同時に、僕は先輩達に声を掛けた。
「よっ…ヨシヒコ君…?」
…何故か班長は困惑しているようだ。
「何目ぇ丸くしてるんすか、班長!」
通谷先輩はいつもと変わらない様子だ。
「班長の心配が杞憂で終わったって事じゃないっすか!ほら、さっさと実験始めましょうよ!」
「ふっ…そうね…。ヨシヒコ君が、この場所を選んでくれたのだから…。」
班長は一転して、微笑んでいる。
「えっと…2人共…一体何の話を…?」
「…何でもないわ。
早速だけどヨシヒコ君、昨日用意したボウル、準備室の奥から取ってきて!」
班長は、今日最初の指示を出した。
「はいっ!」
僕はそれに応じるべく、準備室に向かって歩き出した。
ふと窓の外を見ると、雨は完全に止んでいた。
山際は沈んだ夕日に照らされ、雲間には微かに星空が見えていた。
「そう言えばさっき…廊下から大きな声がしてたけど…。」
準備室の扉を開ける僕に班長が言った。
「たっ…ただの雷ですよ〜!多分…」
さっきの話をするのが照れくさくて、僕はぎこち無く誤魔化した。
To Be Continued