第七話 よくない兆候
翌日、日曜日。俺は岩崎の言いつけを守り、朝十時ごろに部室にやってきていた。正直、ここまで律儀に守る必要はないのではないかと思わなくもないが、うちに来られると面倒なので、俺には選べる選択肢がない。近所のファミリーレストランに避難するという手もあるが、外出するなら学校もレストランも大して変わらないだろう。
部室に到着し、ドアノブに手をかける。珍しいことに、岩崎はまだ来ていないらしく、鍵がかかっていた。俺はあらかじめ職員室で手に入れた鍵を取り出し、開錠して中に入った。中は相変わらず、蒸し暑くて、とてもじゃないがじっとしていられるような室温ではなかった。ドアを開け放ち、窓も全開にしたのだが、それでいくらかましになったが、暑いことに変わりはない。この部室にはうちわ以上に高性能は冷房器具が存在していない。クーラーは無理にしても、扇風機くらいは欲しいな。家の近い真嶋辺りに頼んでみようか。何でも協力してくれるらしいし。岩崎の様子がおかしいのは、どうやら暑さに当てられたのが理由らしい。なんて言えば、持ってきてくれるのではないか。もちろん冗談である。
俺は窓付近にパイプイスを移動させ、うちわ片手にしばらく涼むことにする。ま、大して涼しくないのだが、何もしないよりはましだろう。風鈴でも持ってきたら気分変わるだろうか。そんなことを考えていると、
「おいーっす」
入ってきたのは麻生だった。こいつはだれた様子がない。むしろテンションが高揚しているような気がするのは、俺の見間違いではない。おそらく気温とともに戦闘力も上昇させる種族なのだろう。そんな少年誌に出てくる怪人みたいな設定を妄想しながら、挨拶を返す。
「よう。今日は特に暑いな」
「ああ。そろそろプールか海だよな。学校のプールを解放してくれれば話は早いんだけどな。どうせうちの水泳部は毎日使わないんだ。一回百円くらいなら問題なく払う」
公立の高校で、金稼ぎみたいなマネはできないだろう。やるなら無料で解放するべきだ。などと麻生のたわ言に付き合い、思考を巡らせていると、
「あれ?岩崎は来てないのか?珍しいな」
麻生はさっさと話題を変えてきた。珍しく俺が話に乗ってやろうとしたのだが、空気を読みやがれこの野郎。
「欠席どころか、遅刻も早退もしないようなやつなのに。何かあったのかな?」
どいつもこいつも岩崎を特別視しすぎじゃないか。岩崎だって人間だし、ただの高校生だ。休むことも遅刻することもあるだろうよ。ただ、部活に関しては看過できないな。遅刻も欠席も許さないと言ったのは、他ならぬあいつではないか。来週は俺が休むとしよう。風邪を引く予定だ。
俺と麻生が適当に会話を紡いでいると、十時ジャストくらいに姫がやってきた。
「あれ?先輩は来ていないの?」
先輩ならいるぞ、俺と麻生が。間違っていない。いや、解っている。姫が言っているのは、もちろん岩崎のことだ。麻生と全く同じ第一声だ。一体何なんだ。どいつもこいつも岩崎岩崎言いやがって。そんなに心配なら電話でもかけてみればいいじゃないか。
「先輩ならいるぞ、俺と成瀬が」
「…………」
こいつ、俺と同じこと考えてやがった。いや、俺はこいつと同じ思考をしてしまった。最悪だ。
「そんな全然面白くない冗談要求してないから。誰が先輩だって?どうでもいいから、ちゃんと答えて。岩崎先輩はどうしたの?」
ばっさり切りやがった。言葉に出すつもりなど、これっぽっちもなかったのだが、言わなくてよかった。それで、岩崎のことなら、
「知らん。連絡も来てない。昨日の時点で何も言っていなかったんだから、おそらく今日の朝に何かあったのだろう。寝坊も含めてな」
「岩崎先輩が寝坊なんてするわけないでしょ。きっと何かあったのね」
こいつはいつから岩崎信者になったのだろうか。一応言っておくが、岩崎も普通の人間であり、俺らと同じ高校生である。熱を出したことも、学校をずる休みしたこともある。寝坊だってするだろう。何を根拠に言い切っているのだろうか。
「寝坊するかしないかは置いといて、確かにちょっと心配だな。無断で休むようなやつじゃないのは間違いないだろ。連絡してみようか。風邪程度ならいいが、事故とか事件だと、さすがに心配だ。あいつは寮で一人暮らしだし」
心配しすぎだと思う。前にも言ったが、みんな岩崎に執着しすぎだぞ。ま、岩崎が真面目の塊であり、無断欠勤をするようなやつでないことは俺も反論するつもりはない。連絡したければ、勝手にすればいい。
「ちょっと。あんた、何知らん顔しているのよ」
「は?」
「は?じゃないわよ。あんたが連絡するの」
「何で俺が?言い出しっぺは姫だろ。姫が電話するのが筋じゃないか。心配しているのも、俺じゃなくてお前ら二人だ。お前ら二人が連絡しろ。少なくとも俺の仕事じゃない」
なぜ俺がしなくてはいけないのか。俺が納得するだけの理屈を並べて見せろ。でないと、俺は動かない!と言いたいところだが、
「つべこべ言わないで、さっさと電話しなさい!」
何でこうも女子は理屈を無視するんだろうか。こいつや岩崎や真嶋を見ていると、理屈や論理を組み立ててしゃべるのがバカらしくなってくる。最後はいつも力技が勝つようである。仕方ない、俺がかけるとしよう。
携帯電話を取り出し、通話ボタンを押すかわいそうな俺。しばらくするとコール音が鳴り、岩崎が電話口に出た。
「もしもし」
「あ、はい」
「今何してんだ?とっくに十時過ぎているぞ」
まだ十分程度しか過ぎていないが。
「あ、すみません……。今日は急に用事ができてしまって……、あの、お休みします。すみません」
繰り返し謝る岩崎。明らかに様子が変だ。慌てているようにも、困っているようにも感じる。
「用事って何だ?」
「え?あの、実家のほうで、ちょっと問題があったみたいで、今電車の中なんです。本当に申し訳ありません」
「そうか。で、いつ帰ってくるんだ?」
岩崎の実家について、詳しい情報は持っていないが、比較的近くであるらしいと言うことは知っている。
「すみません。本当にどうなるか解らないことなので、いつ帰れるかも未定です」
「解った。じゃあまたな」
「はい。本当に申し訳ありません。失礼します」
岩崎の申し訳なさそうな声を聞き、電話を切る。麻生と姫が、心配そうにこちらを見ていたので、とりあえず結論だけ口にする。
「今日は実家の用事で来れなくなったらしい」
「実家?先輩は一人暮らしなの?」
「ああ。寮暮らしだ」
「昨日はそんなこと言ってなかったよな?」
「急用みたいだ」
急すぎるとは思うが、事件や事故は急に起こるものだ。ま、勝手に事件・事故扱いしているが、単に連絡し忘れていたとか、日程が変更になったとか、その程度の可能性もある。何にしても、深く考えるような話ではないだろう。真面目すぎるのも良し悪しというところか。岩崎が、そこまで真面目じゃなかったら、麻生も姫もここまで心配しなかっただろう。
「とにかく焦っていたな。急いでいた様子だったし、これ以上深く掘り下げることは出来なかった。あいつが来たときにでも詳しく聞けばいいだろう」
もっとも俺は聞かないつもりだが。
「ま、岩崎が少し頑張りすぎなところもあるしな。たまには休んだほうがいいだろう」
今は夏休みだぞ。そこまで忙しいとは思えない。それに、俺だって結構頑張っているぞ。だからたまには休んでもいいのだろうか。
「先輩が休むことに異論はないんだけど、」
口を開いたのは姫だった。何やら真剣な様子。おもむろに話し出したその内容は、
「先輩がいないと、無性に無駄な時間を過ごしているような気がしてならないのはなぜかしら?」
うーむ。言い得て妙だな。確かに岩崎がいるときは、ここにいることにそこまで違和感はないのだが、あいつがいなくなった途端、何のために自分がここにいるのか、すごく不思議になる。俺がこの部室にいる理由など、普段からないのだが、岩崎がいることでその違和感が消されてしまっているようだ。あいつは様々な特殊能力があるな。
「意識し出すと、今すぐ帰りたくなるな。どうする?もう帰ろうか」
悩むところだな。TCCの存在価値など知ったことではないが、せっかくここまで来たのだ。もうしばらくいないと、何となくもったいないような気がする。しかし、ただここにいることが時間の無駄であることは動かしようがない事実。加えて帰るなら早いほうがいい。なんだろうか、このジレンマに似た感情は。俺はどんな選択肢を選べばいいのだろうか。
「どうするのよ」
なぜか麻生も姫も、俺のことを見て俺に決断を投げかける。さては俺にどうするか決定権を委ねて、全責任を俺に押し付けようとするつもりだな。どうせ残ると言ったら、文句を言うに違いない。でもって岩崎に、なぜ帰ったのか、と詰問されたときには俺のせいにするのだろう。この卑怯者め。これではどちらを選択しても、俺にとって不幸しかないではないか。
「じゃあ帰ろう」
ならば選ぶ道はこっちしかあるまい。いや最初から俺はこっちを選ぶつもりではあったのだが。
「そうね、そうしましょう」
「りょーかーい!」
凄まじい反応の速さを見せた二人は、さっさと帰り支度を始めた。と言っても、かばんから何かを取り出していたわけでもないので、机の上においてあるかばんをひょいと担ぐだけ。帰る支度はコンマ二秒ほどで終わり、俺たちは立ち上がるとドアに向かった。このとき、俺の嫌な予感レーダーは反応しなかった。