影の努力
札幌2歳ステークスでの勝利は、競馬界に2つの衝撃を与えたようだ。
1つ目は、1着が8番人気の小生で、2着が7番人気のリトルマンモスだったこと。2頭の順位を当てられる人が僅かしかいなかったため、1着と2着両方を当てる馬券の払戻金が途方もない金額となった。
2つ目は、新発田恵騎手が初めて重賞を勝ったこと。恵お姉さんはネット上でも記事として取り上げられるほどになっている。
ただ、恵お姉さんは初勝利にあまり喜んでいないことが気がかりだ。
「恵お姉さん、浮かない顔をしているけど……大丈夫かい?」
練習を終えた時に聞いてみると、恵騎手はハッとした表情の後で慌てて作り笑顔をしていた。
「そ、そんなことはないよ。サイレンスアロー君に乗れて嬉しいな」
「…………」
黙って見つめると、恵騎手は困り顔になった。
「シュババ君にはお見通し……という訳だね」
彼女は予想通り浮かない顔、つまり本心を小生に見せてくれた。
「私、あのレースで何もシュババ君の役に立っていない……」
「自分が54キログラムの重りだと?」
恵は頷いた。
「最後の追い込み……リトルマンモスの戸次さんは、自分も馬の体の一部になって追ってきたでしょ。あの姿を見て……鳥肌が立ったの。ただ乗っているだけの私って……本当に足手まといだって」
「もっと上手くなりたい?」
恵騎手は驚いて小生を見た。
「そ、それはそうだよ!」
その力強い言葉を聞いて小生は唸った。普通なら重賞を制して有頂天になるところなのに、これほどの向上心を持っているとは尊敬に値する。
「わかった。納屋においで」
小生は恵を自分の納屋へと案内すると、ワラの上で横倒しになった。
「えーと……私は何をすれば?」
「前にも、小生の身体を触ってもらったことがあったけど、今回はより具体的にお触りして体の隅々まで知り尽くしてもらおう」
そう提案すると恵は驚いていた。
「い、いいの!?」
「お姉さんが全ての馬の騎乗に慣れて名ジョッキーになるには短く見ても15年はかかると思う。だけど、僕限定なら……1か月あれば十分だ」
恵騎手は顔を赤らめると、すぐに小生に手を伸ばした。これは好奇心と言うより騎手の本能のようなものだろう。
「見えているモノだけが全てないよ。小生の皮膚の下には骨があって、筋肉があって、関節があって、血が流れていて、ツボがあって、蹄があって……これらが大地を蹴っている」
「う、うん……」
「競馬は理屈じゃないのは事実だ。だけど理屈を理解するところからはじめないと何も始まらない」
「は、はい!」
「まずは小生の前脚を動かしてみて」
「す、すごく曲がるね……」
「この柔らかさは父さん譲りなんだ。だけど柔らかいだけでなく関節は外れづらく鍛えてある」
「……ね、ねえ」
「なんだい?」
「鼻の穴……めいっぱい開いてもらえる?」
小生は言われた通りに鼻腔を広げると、恵騎手は驚いていた。
「うそ……こんなに広がるの!?」
「ウマは鼻の穴の大きさが強さと言われているけど、本当は鼻周りの皮膚の柔らかさの方が大事なんだ」
「う、うん! 次は……視野を……」
小生が起き上がると、恵騎手は人差し指を伸ばした。
「ここ……」
「見えるよ」
「じゃあここ……」
「見える」
「ここは?」
「見える。ちなみに立体的に見える場所はごく一部だよ」
恵騎手は、まるで乾いた綿のように小生の言ったことを覚えていった。いや、元々知識のあるプロなのだから改良して自己流にしていくと表現するべきかもしれない。
次の東京スポーツ杯2歳ステークスまでだいぶ時間があるので、鞭の使い方を見直してもらうことにした。
「鞭を振るう場合は、僕の筋肉を刺激するようにね」
「は、はい!」
「映像を確認してもらうとわかるけれど、馬の脚には伸ばそうとする瞬間がある。鞭を入れて脚力が上がるのは刹那の一瞬だよ。タイミングを外すと走る際の邪魔になる」
「は、はい!」
小生と新発田恵騎手が、マッチの擦れるような会話を続けている間、栗東トレーニングセンターの片隅では、1頭の競走馬が新馬戦を勝ち上がっていた。
彼の名はウマナミジミー。木下調教師という小柄な人から指導を受けていた。
「ジミー、君の次のレースだけど……東京スポーツ杯2歳ステークスに決めたよ」
ウマナミジミーは表情を変えた。
「東京スポーツ2歳ステークスって……美浦の噂の……」
「うん、君はこのレースで勝利して、一般の馬でも努力すれば……良血馬に勝てることを証明するんだ!」
ウマナミジミーは恐々とした表情のまま頷いた。




