現在8 特異点
目の前にはかつて見飽きたほど眺めた光景がある。
日が落ち、無限の闇が垂れ込める山を背に、煌々とした灯りが私の足元に光を落としている。
あのアトリエでは、今夜もセツナが迷いなく筆を動かしているに違いない。
「さて、行きましょうか」
私は見上げていた視線を落とすと、真っ直ぐ外階段へ向かい、立ち止まることなく二階へと歩を進めた。
ここで生活していた三年間、最も多くの時間を共に過ごしたセツナと、私はどうしても話がしてみたかった。あの頃到底知りえなかった多くのことを知った今、彼とその激情を分かち合わねばならないと強く思った。
アトリエの扉の前に立つと、私は少しの緊張と共に四回ノックをする。すると中から「どうぞ」といつもの、しかしとても懐かしい声が響いた。私は自ら扉を開け、眩しいほどの室内に足を踏み入れた。
「ああ、理央か」
振り返ったセツナが、私の顔を見るなり口角を上げる。どうやら途端に大人になってしまった私を、彼はさも驚きもせず易々と受け入れたようだ。
「セツナ、驚かないの?その、私の姿に」
この世紀のビッグサプライズに、セツナは一瞬こちらを見ただけで、ひょいとまたキャンバスへ居直ってしまう。
「やだな、理央。大人の理央をここへ呼んだのは僕だ。恐らく……ね」
「そうだったかしら?覚えてないわね、そんなこと」
セツナに呼び出されたシーンを探してみても、記憶に引っかかるものは何もない。
「適当に座ってて。キリのいい所までやっちゃうから」
「え、ええ。ごゆっくりどうぞ」
私は私の記憶を探りつつ、アトリエの中ほどに置かれたテーブルに肘をつくと、しばらくの間、セツナの後ろ姿を黙って見つめることにした。
十七歳だったあの頃は、自分たちはもう立派な大人だと思っていたのに、こうして歳を重ねると、十七歳とはどこか頼りない、まだまだか弱く柔らかな新芽に見えてしまう。
知らぬうちに、こんなにも長い歳月を経てしまったらしい。頼り甲斐のある大人びた戦友を、幼いと感じてしまうほどに。
「お待たせ」
いつの間にか意識を頭の中に籠らせていると、不意にセツナから声をかけられ、私は慌てて外部の世界に戻る。
セツナは静かに椅子を引くと、私の右手前になんとなく座った。
「えっと、まずどこから理央に話そうかな」
私から訪ねたというのに、セツナが説明する順序を考えている。ということは、やはり私はどこかでセツナにここへ来るように言われていたらしい。そんな記憶、やっぱりないのに。
「そうだ。ちゃんと驚いたよ、理央の成長っぷりには。なかなか男前じゃないか。今よりずっといい」
セツナは長い腕でおもむろにポットを引き寄せると、中を確認してからテーブルに置かれた二つのマグカップに液体を注いだ。
「今夜、未来から理央が来ることは知っていたんだけど、風貌までは知らされてなかったからね」
渡されたマグカップにはお湯が入っていて、そこへセツナがダージリンのティーパックを投げ入れる。安物のティーパックということは、誰かが今朝作った分の紅茶は売り切れということらしい。
「それって、どういうこと?話が全然見えないわ」
じわじわとお湯に滲む飴色に、セピア色の天井と私のどこか不安気な瞳が映る。
「その質問に答える前に、一つだけ。理央は僕に呼ばれた覚えはないって言うけど、ならどうしてここへ来た?」
「どうしてって」
「昔、僕からこう言われたんだろう?『いつかまたここへ戻ったら、僕のことを思い出して欲しい』って 」
セツナの言う通り、卒業式の前夜にセツナからそう言われたのを急に思い出して、私は一人でアトリエへやって来た。もしかしたら、今ならセツナと会えるんじゃないかという予感もしたから。そうしたら本当に会えた。こうしてあの頃のセツナと。
「それは卒業式に、僕が理央へ言おうと準備している台詞だよ」
「どういうこと?」
「せっかくここまで来れたのに、まだ僕との記憶を全て思い出してないんだね」
セツナが呆れたように頬笑む。
すっかり補完されたと思っていた記憶に、まだ拾いきれていないものがある?
私はセツナから視線をそらして考える。
「理央は知っていたはずだ。僕とあの人が親子だということ。半分身内みたいな紗夜先生以外に話したことのある人なんて、理央くらいなもんだよ」
「半分身内……」
戻した視線がセツナと絡まる。
「僕の実母の心臓が紗夜先生の中にあることも、どうしてそんなことになってしまったかも、僕は全て埋央に話してある」
「さ、さすがにそんな重要なことまで忘れないわ!」
「理央は僕との約束を忠実に守ってくれた」
「さて」と言うなりセツナは立ち上がり、私の手を握って窓の側へ招き寄せた。私と同じ背丈のセツナの顔が、恥ずかしくなるほど目前に近づく。
「せっかくだから、直接見に行こう」
セツナにそう囁かれ、優しくハグされると、一瞬にしてそこは真冬のアトリエに変わっていた。
「なっ、何ここは……どうなってるの!?」
外を見ると、すぐ向こうには深雪に覆われた山々が暗闇の中に鎮座していて、窓枠から微かに吹き込む冷気に思わず右腕が鳥肌たった。この一瞬で何が起こったのか理解できず、私は繋がったままのセツナの手を無意識にきつく握った。
「成功して良かった。誰かと一緒に時を越えたのははじめてなんだ」
「と、時を越えたって!?」
「タイムスリップだよ。理央たちも今してるでしょう」
「タイムスリップをしてる最中にタイムスリップをしたの、私!」
「いいから見てて」




