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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去1 紗夜と茉莉子③


 コンクールの結果発表は毎年、文化祭最終日に体育館で行われます。私が両親を連れて入場したときには、すでに体育館は今か今かと発表を心待にしている生徒やその家族でごった返していました。窓には暗幕が張られ、ステージ上には各学年の最優秀作品が布で隠されて置かれています。


 授賞式がはじまり、理事長が壇上に上がると、会場は一瞬で静まり返りました。


 はじめに一年生の作品が発表されました。選ばれたのは、父親が美大の教授をしてる生徒の作品でした。彼自身も入学早々美術部へ入っていたので、他の生徒とは才能が違うのでしょう。それは満開の桜並木を、河川敷から見上げた風景画でした。


 背中を撫でて励ましてくれる両親に、こんなもんだよ、と私は微笑みかけました。


 次はいよいよ二年生の発表の番です。今年の二年生は優秀な生徒が何人かいる “当り年” で、最も最優秀者の予想がつかない学年でした。出回っていた噂話のほとんどが二年生だったのも頷けます。


 その場にいる全員が見守るなか、布が外されました。


 理事長が作品のタイトルと作者の名前を読み上げます。体育館がざわめく中、私は急いで先輩の姿を目で探しました。


 受賞した作品タイトルは『刹那』。そしてそこには、窓から外を眺める私の後ろ姿が描かれていました。



 後ろ髪を引かれる思いで両親と別れ、後夜祭の会場へ向かうと、キャンプファイアに火が灯されたところでした。

 友人たちに手招きをされて地面に座ると、さっそく先輩の受賞作についての噂が飛び交いました。あれは先輩の彼女だとか、その彼女は三年生だとか、いやあれは完全なる想像だとか。そんな言葉たちの中で、私はただじっと大きくなる炎を見つめていました。


 友人たちがこぞって踊りに行ってしまったので、私は少し休むために寮へ戻ると、一階の人気のないラウンジで先輩を見つけました。先輩と向き合うと、二人の間に共通する感情が通ったように思えて、その奇跡に無性に泣きたくなりました。この複雑な感情を言葉にするには、分厚い辞書を一頁ずつ見ていかなくてはならないかもしれません。


 言葉少なく先輩と二階へ上がると、バルコニーへ続く大広間の、足元まで覆うベルベットのカーテンの中でそっと唇を合わせました。


 生まれてきて良かった。先輩のあたたかな胸の中で、ただただそのことだけを実感しました。


 人は昔から、恋人ができると周りの景色がまるで違って見えると言うけれど、まさにそれと同じことが私にも起きました。景色も音も、パンの味さえ、別次元に来てしまったかのように感じ、自分のあらゆる感度が急に上がったような、処理能力がまるで追いつかない、ふわふわとした感覚に陥ったのです。


 そんな心許ない秋を送っていると、ある日、中庭で美術部の顧問をしている先生から声をかけられました。


「あなた、どうして部活に来ないの?」


 意味が分からず困惑している私に、先生は続けます。


「あなたの入部希望届を見て、五月に美術部への入部を許可したんだけど……あら、 もしかして伝わってなかったかしら?」


 驚きを通り越して固まっていると、先生は「今日の放課後にでも部室を覗きに来なさい」と言って去っていきました。

 そもそも入部希望は出していなかったし、美術部でやっていける実力もあるとは思えなかったので、私はその場でどうしたものかと頭を抱えました。


 放課後、先生の言いつけを守り、一度だけ行ったことのある美術部の前に立つと、気配を感じてくれた美術部の先輩がドアを開けてくれました。中に入ると十人程度の部員がイタリア人とおぼしき講師から、通常の授業では受けることのできない美術史の講義を受けていました。


 さっき中庭で会った顧問の先生から重い美術書を受け取ると、私はそのまま先生の隣りに座ります。


 その場にいる全員が真剣に講義を聞いている最中、先生が耳許で囁きました。


「あの子、今日はいないのよ。つまらないけど、ごめんなさいね」


 先生の真っ赤な唇が、弧を描くように笑います。私はすぐにそれが先輩のことを指していると分かりました。先輩との交際は誰にも話していなかったのに、まさか教師にまで知られていたとは。


「大丈夫、誰も知らないし、誰にも言わないから」


 そういたずらっぽい笑顔で言われ、私はここへ来たことを後悔しました。


 その夜、寮へ戻った先輩と書物庫の陰で落ち合うと、すぐにその事を相談しました。


 すると先輩は「それはあの人にかまをかけられたんだよ」と笑いました。先輩は続けます。


「多分コンクールの絵のモデルが君だということは気づいてると思う。あの人の観察眼はかなりのものだからね。でも、別に何かしてやろうなんて気はないよ。それにばれても構わないし」


 先輩の言葉に、焦っていた気持ちがすんなりと収まっていきました。


「あと一つ、謝らなきゃいけないことがある。君の入部届けを書をいたのは俺です。勝手に書いて、ごめん!」


 先輩の告白に、何か文句を言おうとするよりも先に唇を塞がれてしまい、その時は何も言えませんでした。



 美術部へ入部したことを友人たちに告げると、次の日からあからさまに距離を取られ、いつの間にか昼食の時間ですら一人でいることが多くなりました。


 今まで気づかない振りをしてましたが、ここは厳しい芸術の世界へ入るための、激しい競争の場なのです。いくら難関を突破して入学したとはいえ、自らが望む場所で満足に生きていけるのはほんの一握り。まだ創作に関わる仕事に就けるだけ幸運です。そんなライバルたちの集まる場所で、優位に立っている人間と仲良くするほど呑気な生徒は、まずいないのです。


 友人を失った寂しさを埋めるために、独りのときは中庭でスケッチをすることが多くなりました。


 先輩は学校の外へ出ることが多く、ひどい時は一週間も留守にする時もあったので、スケッチの数はみるみる増えていきました。


 ある日のことです。


「あなたは鉛筆画が好きなの?油絵は面倒なの?水彩画じゃ印象が弱いの?」


 いつものように中庭でスケッチをしていると、通りかかった顧問の先生が無断で私の手元を覗き、立て続けに聞いてきました。私は顔も上げずに返します。


 その瞬間を収めたいんです。

 絵の具じゃ時間がかかります。

 その間に全て逃げてしまうから。


 生意気な言い方だったとすぐに謝りましたが、先生は全く気にしていない様子でした。


「あなた、油絵の出来も悪くないんだけど、やっぱり鉛筆の方が実力を発揮するのよね」


 先生は私のすぐ隣に腰を落とすと、スケッチブックを取り上げて中をじっくり見はじめました。私に断る隙すら与えません。


「あなたは本当に嘘がつけないのね」そう言うと、先生はそれを静かに閉じて、手のひらに返してくれました。


 描かれたほとんどの絵に、ここの生徒の姿がありました。


「好きな子も嫌いな子も、今のうちにどんどん描きなさい。自分ってものを教えてくれるのは、結局のところ他人だけなんだから。でも、もう中庭で描いちゃだめよ、ここの冬はコートだけじゃ耐えられないからね」


 そう言って先生が首もとに掛けてくれたマフラーは、甘い香水の匂いがしました。



 クリスマスが近づいたころ、先生に誘われて学校の奥の森にあるログハウスへ連れていってもらいました。そこは校内で噂にすらならない、秘密の場所でした。


「絶対に友達には教えちゃダメよ?」


 そうウインクしながら先生は鍵を開けます。中に入ると、新品の木材のいい香りがしました。


「油絵から建築に寝返った生徒がいてね、理事長に土地を譲ってもらって作らせたの。私専用のアトリエってところね」


 先生はキッチンでお湯を沸かし、リビングで紅茶を淹れてくれました。毛足の長い、雲のように柔らかな絨毯に座ると、もうすっかり夢心地です。吹き抜けになった高い天井にはシーリングファンが回っていて、私は物珍しく見上げました。


 温かい紅茶を飲んですっかり体がリラックスすると、先生は二階へ案内してくれました。玄関と反対側にあるストリップ階段を恐る恐る上ると、廊下の奥右手の部屋へ促され、真っ暗な部屋のなかに立たされました。


 戸惑っているとすぐにテーブルランプが灯され、部屋が仄かにオレンジ色に染まりました。そこには、たくさんの油絵が部屋中に置かれていました。


 描かれていたのは、全て先輩のヌードでした。


 窓際に立つ後ろ姿や、床で体を丸めている姿、ベッドで眠っているものもありました。素肌の滑らかさはもちろん、ひとつとして見たことがない艶やかな表情の先輩に、私はその場から動くことができませんでした。


 “これが美しいということ”


 子供の私は、天啓を受けたように悟りました。


 先生は私の背後から腕を回し、逃がさないように力を込めると、満足そうに言います。


「なんて美しい子だと思う?造形もそうだけど、うちに秘めているものが堪らなく彼を輝かせてると思わない?こんなにきれいな姿をしていて、そのうえ大いなる才能まで持ってるなんて、神にどれほど愛されているのかしらね……」


 先生は体を密着させたまま、首筋に湿ったため息を漏らしました。二人の体温が上がり、汗ばむほどです。


 先生はここで先輩を描いてるんですか。


 これが声に出せる、精一杯の台詞でした。


「そうよ。あの子、あなたには話してなかったのね」


 パッと体を離すと、「しばらくそこにいなさい」と命令して、先生は先に一階へ降りていきました。


 一人残されると、先輩の無数の視線に身体中を撃ち抜かれました。指一本動かせず、ただただじっと、その場に立ち尽くしました。


 先生が私にこれを見せた理由は、すぐには分かりませんでした。



 山奥の全寮制であるこの学校は、毎年クリスマスの十二月二十五日には冬休みに入ります。


 数日前の電話でその日のうちに家へ帰れることを母に伝えると、「クリスマスは一緒に過ごせるのね!」と嬉々とした声が受話器越しに聞こえたので、私は終業式を終えたら一番最初のバスに乗れるように、早めに帰省の支度をはじめました。冬休みは課題が少ないので、荷物も少な目です。


 あとは貴重品を入れるだけ。そこまで準備を終えると、私は急いで書物庫へ向かいました。


 メリークリスマス!と先輩に言うと、「もう少し先だよ?」と素っ気ない返事が返ってきました。先輩はいつものように、絨毯にあぐらをかいて哲学書を開いています。

 私はずっと思っていたことを口にしてみました。


 哲学、好きでなんですか?


 先輩は本から顔を上げます。


「いいや。知りもしない人間の考えてることなんて、興味ないからね」


 じゃあ、なぜ読んでるんですか?


「安心するからだよ。物事をバカみたいにいちいち深く考えてしまうのは、俺だけじゃないんだなって……」


 私は慣れた動きで先輩の胸元にするりと入り込み、開いてあるページを読み上げました。外国語は得意な方だと思っていましたが、私にはまるで意味が分かりませんでした。


 先輩は言います。


「哲学ってね、他人から与えられたところで何の意味もないんだよ。人は生きる。生きて学んでいく。それか価値を生んで、考えになる。そして生きていると、それは常に変わっていく。だからどの考え方が正しいかなんて、正解はないんだよ。そう思えるようになったのは、哲学書を読みはじめたお陰かな」


 先輩は乾いた音を立てて本を閉じると、ぎゅっと抱き締めてくれました。


「メリークリスマス。よいお年を。明けましておめでとう。それに、誕生日おめでとう」


 いじけた声で囁く先輩に、私はつい笑ってしまいました。

 会えなくて寂しいのは二人お揃いの気持ちで、それが堪らなく嬉しかったのです。


「君はいいね、家に帰ればプレゼントが山になってるよ」

 先輩のその言葉で思い出しました。私はカーディガンのポケットを探り、そこからリボンのついた包みを出します。


 これ、今朝作ったんです。初めてで上手くいかなくて、ほとんど美術部の先輩たちが作ってくれたようなものなんですけど。


 そう言う私の手から星形のクッキーを手に取ると、先輩はそれをまじまじと見ながら、「ありがとう」と笑ってくれました。


 本当はここで食べてもらって、感想を聞きたい……そんな目をしていると、「僕は明日から休み明けまで山篭もりです。挫けそうになったらいただきます」と包みを本の上に置いてしまいました。


 山篭もり。その言葉にログハウスでの出来事を思い出しました。


 目の前にいる先輩とは別世界の先輩。


 あの、目、目、目。


 私は意を決して、自分から唇を近づけました。


 長い時間をかけて、一番深いところまで。


 酸欠で頭がくらくらしながら体を離すと、いつもと何も変わらない優しい視線が私の元へ落ちてきました。


 あの表情は、こんなものじゃ出せない。


 先生に対する嫉妬心よりも、自らの非力さにやるせない気持ちでいっぱいになりました。



 それから程なくして無事に十六歳になり、年が明けると、にわかに周囲が慌ただしくなりました。


 いよいよ勝負どころの三学期の始まりです。というのも、残りの三ヶ月で学力テストに加え、進級試験としてキャンバス画を一点とデッサン画を一点、それに小論文の合わせて三点を提出せねばなりません。もちろん通常の授業で出される課題もこなさなければならないので、一日二十四時間ではまるで足りないのです。


 大多数の生徒がそうしているように、私も真っ暗な時間に起き、真っ暗な時間まで学校に居残るというのが当たり前になりました。


 そんな慌ただしい日々で、自然と先輩と会う時間も減り、期限ギリギリで作品を提出した頃になってようやく、私はバレンタインデーが過ぎ去っていたことに気づくのです。


 あっという間に季節は巡り、春がやってきました。


 久しぶりに学校へ戻った先輩と誰もいない部室から外の桜を眺めると、去年見せてもらった風景画と同じものがそこにありました。開け放たれた窓から入る柔らかな春風に、来年は先輩が隣にいないことを知らされます。


 ようやく新入生から先輩と呼ばれることに慣れ始めた頃、コンクールのお題が発表されました。一年生は《陶器》、二年生は《紅蓮》、三年生は《未来》でした。


 紅蓮という色の意味が分からず図書室で調べていると、去年のコンクールで最優秀賞を取った美術部の同級生が話しかけてきました。


「紅蓮というのは、猛火の炎の色ということだよ。つまり、燃え盛った炎の赤。君はどんな角度からアプローチする?」


 どんな角度からアプローチするかと問われても、たった今意味を知ったので何も答えることができません。


 同級生は続けます。


「俺は、紅蓮を百色の絵の具で表現しようと思う。青も緑も黄色も使ってね。君のも楽しみにしてるよ」


 自信に満ちたその笑みは、まるでこちらを挑発しているかのようでした。



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