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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去16 瞳の中の真実②


「随分と待たせてしまったね。会議が立て続けに重なってしまって、申し訳ない」


 日もすっかり落ち、窓の星空に反射した室内が映る。


 私の命の恩人とも言える大叔父は疲れた顔で、約束の時間を優に過ぎてからソファーへ深く腰を沈ませた。


 私が幼かった頃、この人は今よりずっと若々しい姿でこの学校を収めていたらしい。実直で、清潔で、悪い噂などまるでなかった人だったと、皆が口を揃えて言うほどに。


 それなのに今や闇に支配され、この世のあらゆる邪がその顔に暗い影を落としているよう。こんなにも深い皺は、きっとこの心臓がこの人に刻みつけたのだろう。


 この人は、余りにも大きなものを犠牲にした。禁忌を犯した天使が、神から終わりのない罰を与えられ続けているようだ。


 そんな思いで座っていると、大叔父はほんの僅かに口元を緩めた。


「どうしたかな?私の顔に何かついているかな?」


 昔も変わらないその優しい声で、大叔父はいつも私の身を案じてくれていたのに。


 しかしそれは無意識の内に自分を傷つけ、そしてその都度、柊平さんに呪いをかけ続けている。


「昼間の話の続きを」


 私のやや強い口調に、大叔父はいよいよ声を出して笑い出す。


「全く、執念深い」

「母譲りなんです。それか、宇野さんの性格が移ったのかもしれません」

「分かったよ。紗夜の考えていることを話してみなさい。最後まで聞いていてあげるから」


 子供をあやすような大叔父の態度に、私は気づかれないよう、そっと息を吐いた。


「そうしたら、本当のことを答えてくれますか?」

「分かった。約束しよう」


 咳払いをして湯気の立つコーヒーを飲むと、大叔父は私の目を見て頷いた。


「まずこれは、橘先生が最期に語ってくれたことです」


 そうして私は語り出した。


 幾重に絡み合った物語を紐解きながら。


 ようやく話し終えると、二人の周りに漂う空気は、まるで百年もの時を越えたかのように重く、深い悲しみに覆われていた。


 コーヒーは完全に冷たくなり、私の乾いた唇が閉じると、大叔父は左目からとても小さな涙を一滴だけ溢した。


 その顔はこの部屋に入ってきた時より更に老け込み、落ちた肩は小さく心許ない。


「そんな風に考えていたのか……彼女は……」

「橘先生は、『いつかマリーが私を殺しに来ると思っていた』と仰っていました。事実私も、宇野さんは橘先生に殺されたものと思っていました。……なぜ、橘先生を巻き込んだのですか?」


 無言の大叔父に、私は続ける。


「橘先生がやったことは自傷行為です。それを止められたのは、理事長だけでした。橘先生とは長い時間を共に過ごされてきたのに、あんまりです」

「子供の命に代えても……か?私が手を下していたら、きっと柊平の子供の命は助からなかった」

「柳沢夫妻にセツナくんを紹介したのは理事長ですね。迅速な対応だったと、彼が持っていた戸籍謄本が物語っています」

「結果論だよ。全てはそうなってしまったこと。今さらどうこう言おうが、もう過去は変えられない」


 窓の外の、果てしなく遠いところを見つめる大叔父に、私は震える手を必死で押さえた。


「ここへ来てからいくつも図書館を回って、過去の新聞記事を漁ったんです。あの日の夜のことをきちんと知りたくて。でも、無かったんですよ。学校での事故の記事も、脳死患者が出た記事も、心臓移植をした記事も、その手術が成功したことも。変ですよね、あの時代、未成年者同士の移植手術が行われたのなら、こぞってマスコミが押し寄せたはず。それなのに、あの時はたった一社だって取材に来なかった。呑気な私は、そのことを不思議とすら思わなかった」

「紗夜……」

「私は、理事長に罪を償って欲しいと言いに来たわけではありません」


 訝しげな大叔父の顔を、私は睨みつける。


「仰る通り、全てはもう過ぎてしまったこと。これは小さな不幸が幾重にも重なってしまっただけです。柊平さんが才能を持ってしまったことも、柊平さんが宇野さんを愛したことも、それが理事長の目に留まったことも、私が病気になったことも、たまたま小さな不幸が、運命の磁気にくっついてしまっただけ。でも、忘れないでください。理事長の犯したたった一つの罪で、たくさんの人の人生が狂わされました」


 私の目をじっと見つめる大叔父の瞳に、刹那、あるはずだった物語が通り過ぎていくのが見えた。


 卒業後、画家として脚光を浴び、世界中で個展をひらく柊平さん。


 そんな柊平さんを陰ながら支える茉莉子さん。


 教え子の活躍を自慢気に語る橘先生に、もう飽きたと言わんばかりの柊平さんの後輩たち。


 あまり帰ってこないお父さんを、窓辺で頬杖をつきながら待つセツナくん。


 そして、やっと娘の死を乗り越えた両親に、可愛い孫を抱かせる弟夫婦。


 それで良かった。


 世界はそうして、正常に回っていくはずだった。


「今日は、理事長にお願いがあって来ました」


 私は深々と頭を下げる。


「柊平さんの命を、守ってください」


『復讐です。僕がこの学校へ戻った目的は…』


 あの時の柊平さんの言葉を思い出すだけで、頭が割れるように痛みだす。柊平さんがしようとしてる復讐なんて、一つしかない。


「柊平さん、死のうとしてます。ここで」


 あらゆる後悔を抱いたまま。


 いろんな人の無念を、一身に受け止めて。


「まさか……」


 大叔父の乾いた声が、無音の部屋に響いた。




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