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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去1 紗夜と茉莉子②







 その学校へ行こうと思ったのは、将来の夢とか進路とかが決まっていたからじゃなく、ただ単純に、なんの変化もない場所から抜け出したかったからなんです。最初は家族に強く反対されましたけど、最後には両親も渋々折れてくれて……。


 希望した学校は、全国から画家を志す学生が集まる学校だったので、倍率はとても高かったと思います。それでもなんとか狭き門をくぐって初めて校舎へ足を踏み入れた時、その人と出会いました。


 彼は中庭の桜の木の根元で本を読んでいました。確か、哲学の本を。


 彼と目が合った瞬間、身体中に電流が流れたような衝撃が走りました。それから目が離せなくなって、あっという間に、ほんの一瞬で、彼に恋心を抱きました。


 そばに寄ると、制服のネクタイの色がひとつ先輩の二年生であることを教えてくれました。


 思いきって新入生だと伝えると、先輩は読みかけの本を閉じ、教室まで案内してくれました。正直なところ迷子になりかけていたので、とても助かりました。


 教室へ着くと、先にいた新入生たちが一斉に先輩の元へ駆け寄って来ました。私は絵を描くくせに画壇のことには疎いので分かりませんでしたが、先輩はこの世界では有名人だったようです。


 別れ際、先輩は名前を教えてくれました。人の名前を覚えるのは苦手でしたが、この時ばかりは一回で覚えました。

 それからすぐに、また先輩とお話をする機会がありました。


 学校から寮へ帰る一本道を、二人で歩いて帰ったのです。時間にしたらほんの十分。それでもそのひとときに、体が浮いてしまいそうなほどの幸せを感じました。先輩が持っている賞の数々は、クラスメイトから教えてもらって大体は把握していました。しかしその賞がどれほど取るのに難しく、素晴らしいものなのかはまるで想像がつかなかったので、先輩を立てることもできず、私は淡々と自らの日々の、些細な出来事を話すばかりでした。こんなつまらない話を熱心に聞いてくれていた先輩のことを、私はもっと好きになりました。


 寮の玄関で別れ際、先輩が「またね」と言ってくれました。


『またね』


 その優しい声に、夜なんていらないのに……と心から思いました。


 夏が幾分近づいた頃、年に一度開催される校内コンクールのお題が発表されました。


 その頃いつも一緒にいた友達と二人でお題を見に行くと、ちょうどそこに先輩がいました。嬉しくなって声をかけようとすると、私より先に友達が先輩へ話しかけてしまいました。先輩は私に向ける笑顔と同じものを友達にもし、そのままの表情で私を見ました。


 このとき私は生まれてはじめて誰かに失望し、心が縮んでいくのを感じました。誰になにをされたわけでもないのに、食事もろくに摂れないくらい、色々なものに深く深く傷つきました。


 一年生のコンクールのお題は≪桜≫でした。桜と指定されたものの、外の桜はもう散ってしまっています。モデルになるものはありません。校内コンクールといっても、今後の進路を左右する大きな意味を持つものなので、下手なものは描けないのです。周りの同級生と同様に私もとても悩み、気晴らしに学校の裏の山桜を見に行きました。


 するとそこで、意識的に避けていた先輩と鉢合わせてしまいました。


 私は目も合わせられませんでした。


 焦ってその場から逃げ出そうとしたとき、「今年の一年生のお題は難しいね」と、先輩から話しかけられました。


 数日間、僻んだり妬んだりしていた感情が、その一言で消えていくのが分かりました。


 「ちょっと見においで」そう言って歩きだす先輩を、私は黙って追いかけました。


 連れていかれた先は、美術部の部室でした。ここの学校の美術部といえば、エリート中のエリートしか入部できないと聞いていたので、先輩に招かれてもすぐに部室に入ることはできませんでした。


 ドアの前で戸惑っていると、先輩は私の手を取って中へ促してくれました。はじめて触れる男の人の大きな手に、心臓が跳ね上がりました。


「窓の外に桜の木が見えるでしょ?」


 先輩はそれを指差し、待ってて、と奥の部屋へ行ってしまいました。


 今に誰か入ってこないか、ドキドキしながら先輩が出てくるのを待ちました。私は部員ではないので、ここで誰かに見つかってしまったら怒られると思ったのです。


 好奇心に負け、部室の中を盗み見るように視線を部屋の奥へ向けたとき、先輩が四十号ほどのキャンバスを抱えて出てきました。


 お待たせ、と言いながら先輩が見せてくれたのは、ちょうど私の立っている場所から見える景色を描いた油絵でした。現在と違うのは、桜の花が見事に満開だということです。


 今にも春風になびきそうな桜に、私は釘づけになりました。


 すごい……そんなありふれた言葉を呟いた時です。気がつくと私はキャンバスの中で、桜の木の下に立っていました。小さな頃からそういうことがたまにあったのです。立派な作品の前に立つと、絵の中に吸収されてしまうことが。


 私は風を起こさないように静かに近づき、そっと桜の幹に触れてみました。それは力強く脈打ち、凛として大きな枝を広げています。狂い咲く花びらが辺りを覆って、まさに淡紅色の世界。桜の木に身を預けながら、私はうっとりと花びらが揺れる姿を見つめました。


 それからどのくらいの時間が経ったでしょう。


 いつの間にか、そこは夕日に染まる美術部の部室でした。幸い部屋には先輩の姿しかなかったので、私はほっと胸を撫で下ろしました。


 机で真剣にデッサンをする先輩の手元を覗くと、そこには葉桜が描かれていました。鉛筆一本で描いたとは思えないほどの鮮やかさに、私はつい顔を近づけました。


「桜っていうのはね、花びらがなくても桜なんだよ。だからひとつのイメージにとらわれず、自分の感じたままを描くといいよ」


 屈みすぎたのか、思いもよらず耳許で囁かれた先輩の声に、私は思わず悲鳴をあげて飛び退いてしまいました。耳まで真っ赤にし、両手で頬を隠す私の姿をおかしそうに笑う先輩に、消えたくなるほどの恥ずかしさを感じました。


 コンクールの締め切りは、夏休み明けの九月一日です。


 夏休み中はずっと実家に帰省していて、先輩に会えない寂しさでコンクール出品作の制作に全く手がつかなかったものの、お盆に親戚から学校での成績を誉めてもらえると少しやる気が出て、なんとか期限までに作品を仕上げることができました。


 普通なら休み明けに再会した友人たちと真っ先に成果を見せ合うところですが、ここではコンクールに出す作品は誰にも見せてはいけないルールになっているので、直接見せて説明するわけにはいきません。なので私たちは持ち得る語彙を尽くし、身振り手振りでどれほど大変だったかのを説明し合いました。それがなんだか滑稽で、最後にはみんなで大笑いをしました。苦労話さえ可笑しくしてしまう、愉快な友人たちなのです。


 体育館でコンクールの出品受付を済ませると、遠くに先輩の姿を見つけました。友達と三人で、何やら楽しそうに談笑しています。気になって見つめていると、目が合いました。一ヶ月半ぶりに見る先輩の優しい眼差しに、すぐにドキドキと心臓が暴れだし、体が熱くなるのを感じました。


 その日の放課後、私は先輩と裏山の山桜の下で会いました。


「納得のいく絵は描けた?」


 先輩の問いに、私はやや間をあけて頷きます。すぐに返事ができなかったのは、先輩からの評価に自信がなかったからです。構図やニュアンスなんかを説明すると、先輩は何度も頷いて誉めてくれました。


「結果が出るのは十月の文化祭だから、それまで楽しみにしてるね」


 そう言うと、先輩は部室の方へ歩いていってしまいました。


 先輩は何を描いたのだろう。どんな想いで描いたのだろう。夏休みはどう過ごしたのだろう。今は何を描いてるのだろう…。


 たくさん聞きたいことがあるのに、二人になると上手く話せない自分に苛立ちました。夏のエネルギーが削がれはじめた涼風に、先輩への想いは募るばかりです。


 二学期の中間テストが終わると、文化祭はもうすぐです。


 一年で一番忙しい時期になり、全校中の生徒が放課後になると毎日、文化祭の準備で校内を走り回ります。この学校の文化祭は、保護者や地元の方が普段は閉ざされている校内を自由に歩き回れる特別な日なので、模擬店もたくさん出るのです。


 クラスの催しを準備していると、色んなところから噂話が聞こえてきました。今年のコンクールの受賞者は誰とか、誰の作品が誰に真似されたとか、誰が先生に賄賂を渡したとか。


 そんなことを遠くに聞きながら、私は先輩の描いた絵が気になって、なかなか作業に集中できませんでした。


 今年の二年生のお題は≪純白≫でした。






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