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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去15 一章分の人生⑤


 大雨が地面を冷やして、幾ばくか気温が落ち着いた日曜日。いつものようにアトリエでゴロゴロしていると、柊平くんから伝言を受け、私は急遽、応接室へと向かった。


 濡れた足元で職員室の前を通ると、大勢の先生たちが休日出勤をしていて、来たる文化祭に胸が高鳴る。


 今年は誰が最優秀を取るんだろう。大本命はセツナだろうけど、今年の二年生は大混戦が予想されている。それに心美のあの余裕を見れば、もしかしたら、もしかするかもしれない。


 心美とセツナの顔を浮かべつつ応接室のドアを開けると、既に母と玲央が並んでソファーに座っていた。


 二人とは実に引っ越し以来の再会。心美の姿を探す母に、私は心の底から安堵した。


「もう、あなた、お盆もお正月も帰ってこないで!」


 部屋の中に一歩踏み込んだ瞬間、聞き慣れた母の怒り声が耳に刺さる。


「ものすごく忙しいの。本当にもう、よくぞここまで課題を作れるわねってくらいに。覚悟はしてたけど、想像以上に創作漬けの毎日で……」


 初めて女装姿を晒したというのに、母も玲央も特に咎めたり態度を変えたりはせず、私が家に帰らないことへの文句をひとしきり言い終えると、やっと母の口からぽつりと心美の名前が出た。


「心美は元気にしてる?」


 会いたいのだろう。きっと、私になんかよりもずっと。


「元気よ。冬に一度だけ熱を出したけど、それ以外は健康に過ごしてる。ちゃんと学年上位にも入ってるし、問題は何もないわ」

「そう。この前の冬は寒かったものね」

「今日は用事で出掛けてて、学校にはいないの。会わせられなくて、ごめんなさい」

「仕方ないわ。私たちも急に来ちゃったから」


 本当のところは、今ごろ部室で呑気に雨音でも聴いているに違いないだろうけど、心美を誘ったところで絶対に来ないだろう。母にはこう言っておくのが、二人のためだった。


「あなた、いま一人部屋だっけ?」

「いいえ。首席と同じ部屋」

「そう。相手の方に、迷惑かけたりしてない?」

「人間関係は順調だと思うけど」


 そう言えば学年が変わる時、セツナから同居の解消を言われなかったな……と、この時はじめて気がついた。セツナからすれば流れで見知らぬ私と同室になった訳だから、進級を機に解消を言い渡されても不思議じゃないのに。私との同居生活に、少しでも居心地の良さを感じてくれているということだろうか。


「なに笑ってるの?」


 私の緩んだ口元を見て、玲央が訝しげな顔をする。


「いや、別に。ところで、今日はどうしたの?まさか私の近況を聞きに来たわけ?」


 二人が顔を合わせる姿を見て、何だか嫌な予感がした。


「理央、この前送ってくれたデザイン画、どうもありがとうね」


 母が私に微笑みかける。


「ああ、新商品の。どう?ちょっと奇抜すぎた?」

「すでに商品開発会議をしていて、年明けには販売まで行けると思う」


 そう言いながら玲央がタブレットを取り出し、新商品のパッケージデザインのイメージを私に見せてくれた。


 中学校を卒業した頃より幾分大人びた弟のその姿は、なんだか何処ぞの若手社員のよう。そのワイシャツにネクタイがついていたら、一気に商談の画になっている。


「今までの商品イメージが黄色だったから、赤にするのにかなり迷ったのよね。こう見るとあんまり違和感ないけど、同一商品だって分かってもらうには、しっかり宣伝しなきゃだめかもね」


 ミニスカートを履いた足を組み直すと、玲央の刺さるような視線を剥き出しの膝に感じた。やっぱり良く思っていないのか、怒っているのか、呆れているのか。そう思うと何だかゾクゾクしてくる。


「CMは入れるつもり。それと、これは父さんからの伝言……」


 上目遣いの玲央の目を、私は捉えて放さなかった。遠路遥々、この悪天候の中をここまで来たんだ。さあ、鬼が出るか蛇が出るか。


「ここを卒業したら、理央には経済学部に進んで欲しい。デザインの勉強がしたかったら同時にしてもいい。とにかく父さんからは、理央もうちの会社を継ぐようにと言われてきた。俺もそうなると思う」


 どうせそんなことだろうと思っていたけど、これじゃ拍子抜け。


「嫌よ。心美との約束は忘れたの?」


 私は余裕を見せつつ、拒絶を前面に出した声を部屋に響かせる。


「もし従ってくれたら、真由さんと真由さんのお母さんを再会させてあげてもいい。そう言ったら?」


 玲央の言葉に、どろりとした嫌悪感が一気に全身を包み込む。


 気がつくとローテーブルに足をかけ、自分とそっくりな顔をした弟の胸ぐらに掴みかかっていた。ビリ……と布が切れる音がして、玲央の腰が浮き上がる。


「ちょっと、理央!」


 母が私の右腕を剥がそうとする。けどそんな細腕、激情に駆られた高校生の息子の力に敵うはずがない。私は腕に筋を浮かせたまま、玲央を間近で睨みつけた。


「あの人に伝えておきなさい。そんなもの調べてる暇があるなら、顧客アンケートでも見てた方がよっぽど会社の発展に繋がるってね」


 父が知らぬ内に私の人間関係を調べ、真由の母親を見つけ出していたことも、玲央の口から真由の名前が出たことも、二人の悪意が侵食してくるかのように私を汚していった。


 なにより真由のために何もしてやれない自分の無力さに、不愉快を通り越して自分で自分を刺し殺してしまいたいほど、強烈に苛立った。


「そんなデザイン、タダでくれてやるわ。もう二度と来ないで」


 本当にもう二度と顔を合わせることはないかもしれない。そう感じても、最後に二人の顔を見ることもなく、私は応接室を後にした。それから一目散に部室まで走り、雨にびっしょりと濡れたまま心美の膝で泣き続けた。


 泣いたって仕方ない。


 全て運命が悪いんだ。


 でも。


 自分の意地さえドブに捨ててしまえば、真由はまた大好きな母親と過ごせるのではないか。


 そう思った瞬間に、私は暗い沼の底に沈んでいった。


 心美と真由。


 二人のどちらかなんて、私には選べない。




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