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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去15 一章分の人生③


 気の緩んだ夏休みはあっという間に折り返し地点を過ぎて行き、自由度の高さゆえに何の収穫もない私の手元には、数枚のスケッチだけが言い訳のように茶封筒に入れられている。


 こうも暇だと、早めに夏休みを切り上げたい気分。こんなこと、コンクール参加者の前では間違っても口に出せないけど。


「理央、真由は?」


 眠たげな表情をした心美が、隣のベンチでだらりと全身を脱力させ、辺りを見渡す。


「上よ。紗夜ちゃんと二人で一年生に油絵の基礎を教えてる」


 ギリギリ日陰になってる部室裏のベンチで、私はなんとかそよいでいる風に汗ばんだ額を晒した。


「また?もう一週間連続だよ?今日は休めって今朝も言ったのに」


 心美が難儀そうに力を込める缶ジュースに恨めしく目をやると、お言葉に甘えて一口目を頂戴した。きつめの炭酸がため息を誘う。


「今年の一年生は揃いも揃ってやる気の塊みたいな子たちだから。今が夏休みなんて、なんの問題でもないのよ」


 私は右腕を背もたれに乗せながら、あーあ、とうんざりする。


 高校二年生の、おそらく人生で最も輝かしい夏休み。てっきり彼女とデート三昧の甘ったるい日々だと思っていたのに、現実は真由に放ったらかしにされた、味気のない毎日。


 優秀で真面目な彼女を持つと、これだから大変だ。


「西園寺先輩は?」


 缶の底をまっすぐに立て、炭酸を一気に喉に流し込みながら心美がこちらを見る。


「西園寺先輩も生田先輩も、みんなオープンスクールの片づけよ」

「ああ。そっか……すっかり忘れてた」

「心美は?片づけ当番じゃないの?」

「うん。まだコンクールの仕上げてないし、来なくていいって」

「そう」

「間に合うかな、花火」


 呟くような心美の声で、腕時計をチラリと見る。そろそろ準備をした方がいい時間だけど、上のアトリエから漏れてくる話し声の様子からして、まだまだ時間がかかりそう。


 私はがっくりと肩を落として、去年の自分を責めた。なんで男二人で旅行になんて行ってしまったのか。野郎二人で見るローカルテレビより、真由の浴衣姿の方が数百万倍人生に必要なことだったはずなのに。


「真由の浴衣姿は諦めるしかないね。一緒に花火を見れたらラッキーくらいに思っておきな」


 崖っぷちにいる私を蹴落とすかのような心美の冷淡な言い方に、なんだか涙が溢れてきた。


 正にこれぞ、後悔先に立たず。


「心美ちゃーん!理央ちゃーん!」


 何度目かのため息を吐ききったところで、不意に空から紗夜ちゃんの声が降ってきて、私と心美は同時に上を向く。紗夜ちゃんが二階の窓から顔を出して、私たちを見下ろしていた。


「ごめんね、真由ちゃんのこと借りっぱなしにしちゃって。今日、花火だよね?」

「ああ……うん」

「今すぐ真由ちゃんに帰り支度してもらうから、三人は先に向かってて!後で私も向かうから!」


 ちょっとちょっと、そんなプライベートなこと、他の生徒が聞いてる前で言ってもいいの?と焦りつつ、私は心美と顔を見合わせる。


「そっち、いいの?」


 心美が聞くと、紗夜ちゃんは笑顔で頷いて顔を引っ込めた。


「だってさ。急いで着替えれば間に合うかもね」

「頼んだわよ」


 どうか真由と心美の着つけの記憶が、少しも薄れていませんように。そう祈りつつ、真由と合流した私たちは急いで寮へ戻った。



 爆音と共に黄色く染まる真由の横顔を、私はこの目に焼きつける。


 去年の夏、三人で選んだ濃紺の浴衣を着た真由が、瞳を輝かせながら夜空に咲く大輪の花を見つめている。潤んだ瞳も、艶のある唇も、少し日に焼けた華奢なうなじも全てが芸術的に美しい。


 そしてなんだろうか、このクマを誘う蜂蜜のような甘美な香りは。


 フェロモン?


 誘われてる?


 蜂の巣に?


 でも、せっかく蜂たちが貯めた蜜に手を突っ込むのは、さすがの私も良心が痛む。


 だから今夜は、指一本だって動かさずにその香りに酔いしれることにした。


「理央さ、真由ちゃんばっかり見てないで、少しは花火も見たら?真由ちゃんが居心地悪そうじゃないか」


 呼ばれた声に思いきり視線を右手にシフトすると、呆れ顔の柊平くんが腕を組んで私を覗き込んできた。


 私が疑問符を浮かべると、柊平くんは更に眉を上げる。


「毎日一緒にいるのに、よくもまぁずっと真由ちゃんのこと考えてられるよね」


 柊平くんのその言葉に、真由が大きく頷く気配が背後からした。


 否定はしないけど、考えてたのは真由のことじゃない。蜂と熊と良心のことだ。


「別に悪いことじゃないけどさ、あんまり一つのことにのめり込むと、後で苦労するよ」

「どういうこと?」

「人生は一章だけじゃ終わらないってことだよ」




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