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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去1 紗夜と茉莉子




 目が覚めると、思わず顔をしかめるほど明るい光が視界に飛び込んできた。その眩しさを咄嗟に手で遮ろうとしたのに、たくさんの管に繋がれていてまるで身動きがとれない。


 朦朧とした頭で考える。ここはどこだろう。


「紗夜ちゃん?」


 どこからか微かに母の声が聞こえる。


「紗夜ちゃん、お母さんよ。分かる?」


 頑張って視線をずらすと、帽子とマスクをした母が私を覗き込んでいる姿を見つけた。ひどく心配そうな母の目に気づいたときに、私は思い出した。


 そうだ、手術を受けたんだ。


「お……母……さん……」

「紗夜ちゃん!」


 頑張って大きな声を出そうと思ったのに、私の口から発せられた声は悲しいほどか細いものだった。それなのに母の目は弓のように細くなり、そこから涙が溢れだす。悲しさと辛さに泣いてばかりいた母が、やっと幸せそうな顔をしている。


「今までよく頑張ったね」


 母が私の手を握りしめた時、その感触に生きていることを実感した。


「紗夜ちゃん、本当にお疲れ様。手術は無事に成功したって。もう大丈夫、大丈夫だからね……」


 母の涙は止まらない。


 全身を襲う体のだるさは術前と変わらないものの、どうやら私は死の淵から生還したらしい。


「お母さん……私、生きれる?」


 涙を流しながら何度も笑顔で頷く母に、私も少し笑った。




 晴天の霹靂とは、まさにこのことだった。


 中学三年生の冬。ある日突然、私は胸の苦しさに襲われた。


 ストレスか何かで具合が悪くなったと思い、軽い気持ちで病院へ行くも、診断結果は心不全。更に運が悪いことに、心臓移植をしなければ長く生きられないと医師に告げられた。


 数々突きつけられる残酷な運命に、私より先に母が崩れ落ちた。医師や看護師に支えられてなんとか立ち上がったものの、到底その日は母一人で家に帰ることはできなかった。でもそのお陰で、私は母の心配ばかりしていて、自分自身の死への恐怖をあまり感じずに済んだ。


 私はすぐに大きな病院に転院した。そこで補助人工心臓なる機械をつけて、新しい心臓を提供してくれるドナーを待つ日々が始まった。


「お母さん、毎日お見舞いに来なくていいよ?変わったことなんて何もないしさ」

「なに言ってるの。お母さんはあなたの顔を見るために生きてるようなものなのよ?」


 病室で私の顔を見た途端に、母は決まって涙を流した。


「どうして紗夜なの……他の子だっていいじゃない。どうして紗夜が……」


 毎日繰り返されるこの流れに、私は毎回いたたまれない気持ちになった。


 ドナー探しは時間との勝負だった。私の心臓が止まるのが先か、新しい心臓が運ばれて来るのが先か。


 もちろんドナーとなる誰かのことを考えなかったわけじゃない。ただ十五歳の私には、誰かが死んで私に心臓が提供されるという事実を、あまり重く受け止めることができなかった。何より、まずは泣き続ける母を救いたかった。


 心臓移植というのは、心臓があればいいという簡単な話ではなく、自分にぴったり合うタイプのもを見つけなければならない。血液型、体重、抗体など、様々な条件の一致が必要で、それらに合うものがあってはじめて移植コーディネーターから心臓を紹介してもらえる。それに加え、ドナーが見つかったタイミングで私の体も移植に耐えうる体でないと、当然手術には繋がらない。


 だから心臓を待っている間は間違っても風邪なんて引けないので、友人や知人と会う機会も減り、必然的に私は病室に籠るようになった。


 そうしてコーディネーターから連絡のない日々が、そろそろ一年を迎えようとしていた。



「心臓が見つかりました。移植を希望しますか?」


 そう医師から告げられた時、真っ先に母が答えた。


「はい!もちろんです!」


 それに私も頷く。


 母には黙っていたけれど、この頃の私はずいぶんと弱っていて、積極的に病室の外へ出たいとも思えないような状態が続いていた。しかし母のためにとなんとか力を振り絞る毎日で、それもそろそろ限界だと思い始めていた矢先のことだった。


「必ず成功させる。だからあと少し頑張ろうね」


 ずっとお世話になってきた医師の言葉に、やっと私の未来に光が差し込んだ。


「先生、よろしくお願いします」


 力が入らず下手くそな私の笑顔に、母はやっぱり泣いていた。



「紗夜ちゃん、どう?体調は」

「良好です。自分の足で歩けるなんて、なんだか変な気分」

「入院する前は陸上部だったんでしょ?目にも見えない速さで廊下を走るのは禁止ですからね!」

「陸上部員の端くれってだけで、別に速くないですよ」


 一年以上も入院していると、ナースステーションの前を通るだけで、誰かしら顔馴染みの看護師が声をかけてくれる。

私の入院中に移動になった人もいれば、新しく入ってきた人もいて、今や私は院内人事のことなら何でも知っているベテラン患者だ。


 決して誇れることではないのだけれど、私はこの病棟に居心地のよさを感じていた。


「なにか変わったことがあったらすぐに言うのよ?とってもデリケートなお年頃だからね!」

「羨ましいでしょー!」


 冗談を言ってくる年配看護師と談笑しながらも、私は心にもやもやしたものを抱えていた。



 午前二時。


 私は今夜もベッドの上で目を覚ます。


「ああ、まただ……」


 こうやって起きてしまうとしばらくは眠れない。仕方ないので体を起こし、ぼんやりと窓の外の景色を眺める。こんな時間だというのに街にはいくつも灯が輝いていて、いつもと変わらないその夜景に、私はここが現実世界だとほっと胸をなでおろした。


 ICUから一般病棟へ戻った私は、毎夜夢を見ていた。


 それは夢にしては現実味のある、誰かの体に乗り移っているかのような、不思議な夢だった。


 夢にはいくつかのパターンがあった。


 教室の窓から桜を眺める夢。


 ドキドキしながら部屋を抜け出す夢。


 中庭で散歩をする夢。


 友達とキャンプファイアをする夢。


 森の中で星空を見上げる夢。


 そしてその中でも一番多かったのは、大好きな人と一緒にいる夢だった。


 最初は悪夢ではないから深く悩んだりはしなかったけれど、日毎に私はその夢のことばかり考えるようになった。


 くり返し見るあの夢の数々は何なのだろう。


 いつも優しく微笑んでくれる彼は誰なのだろう。


 そうして物思いに耽っているうちに、だんだん夢と現実の境目が曖昧になっていった。


 私は、今こうして病院のベッドに座っている私は、果たして現実の世界に生きている私なのだろうか。


 死と向き合って、懸命に生きようとしていた私こそが、夢の中の私ではないのか。この傷は、この新しい心臓は、現実世界の私が作った夢の中の幻ではないのか。


 何が現実で、何が夢なのか。


 そんな絶望的な不安に襲われた時は必ず、母の手を握っては、その暖かさにここが本物の世界であることを悟る。その柔らかくて優しい手だけが、私という存在の唯一の証明だった。


「あら、紗夜ちゃん、いつから絵なんて描くようになったの?」


 検温に来た看護師の平山さんの問いかけに、私はベッドのオーバーテーブルに置かれた小さなスケッチブックに目をやる。


「つい最近かな。なんだか無性に絵を描きたい気分になるの」

「今まで絵なんて描いたことなかったのにね。体が元気になって、新しいことでも始めたくなった?」

「うん、そんなところ」


 私の笑顔に、元気が一番!と言って病室を後にする平山さんを見届けながら、私はスケッチブックの一番新しいページを開いた。


「なんでだろう。なんで急に絵なんて描きたくなったんだろう」


 小さな頃から机に座っているより体を動かす方が好きで、まるで絵心のなかった私が、移植後から絵を描き溜めるようになった。


 試しにと最初に描いたものは、以前の私と同じで幼児が描くような得体の知れないものだった。しかし数日のうちに描いた線がちゃんとした形に見えるようになり、今では奥ゆきさえ一目で分かるレベルのものを描けるようになった。


 この上達ぶりにも困惑した。


 上手に描こうと考えているわけではなかった。指が描き方を知っているかのように、すらすら動くのだ。


「あら紗夜ちゃん、ずいぶん上手になったのね」


 お見舞いに来た母が、スケッチブックを手に取る。


「手がね、勝手に動くの……」

「才能の開花ってやつじゃない?あなたは今まで運動しかしてこなかったから、才能が隠れていたのよ」

「えー、まさか」


 母だって充分知っているはずだ。私が図工や美術で誉められたことがないことを。


「もしもっと上手くなったら、大伯父さんの学校へ通ったら?」

「大伯父さんの学校って芸術系の学校だよね?ムリムリ。私、モナリザだって何がいいのか分からないもん。それにあそこって全寮制でしょ?私、お母さんと離れるの嫌よ」


 首を振る私に、勿体ないわね……と母は上機嫌でそれをテーブルに置く。


「今度はお母さんのこと描いてね?」

「うん。すっごい美人に描いてあげるから!」

「もう、この子ったら」


 母は私の変化に気づいているのだろうか。


 なるべく不安を表に出さないように、私はいつも通りの表情で笑った。



 私は移植後から頻繁に受けている様々な検査を順調にパスしていき、周りも驚くような驚異的なスピードで体を回復させていった。


 胸を大きく分かつ手術の傷は生々しいけれど、もう傷自体の痛みはあまり感じない。この分では、来月末にでも仮退院ができるだろうという話しまで出はじめていた。


「予想ではあと少しかかると思ってたんだけど、僕が見てきた患者さんの中で、一番成績優秀ですね」


 学生の私にとって、先生の言葉は何より嬉しかった。


「きっと、心臓をくれた人のお陰です」

「いい心臓をもらえて良かったね。大事にしようね」

「はい!」


 ひとまず私がこうして生きていられるのは、心臓をくれた誰かのお陰なのだ。色々と悩みを抱えながらも、私はそう強く心臓の主に感謝をした。


 それからほどなくして、私は退院した。




 その日は真っ青な空に入道雲が浮かんでいた。


 診察後、私は移植に関わる全ての面倒をみてもらったレシピエントコーディネーターの吉井さんと、病院の屋上で話しをする機会に恵まれた。


 吉井さんと深い話をするときは今まで必ず母が同席していたから、二人きりでゆっくり話すのは、もしかしたらこれがはじめてかもしれない。


「もう夏ね。そろそろ日焼け止め塗らなきゃ。紗夜ちゃんはいいわね、あんまり日焼けしない体質なんでしょ?私なんて放っておくと備長炭みたいに真っ黒になるのよ」

「備長炭になった吉井さんのことも見たいかも」

「もう、笑い事じゃないんだからね!シミとかシワとか、余計なオマケまでついてくるんだから」


 吉井さんがこの場を設けてくれたのは、きっと私の精神状態を察してくれてのことかもしれない。私は吉井さんにどこまで話しきれるか、少し緊張した。


 しばらく雑談をした後で吉井さんは自然に会話を切り、私を後押ししてくれたのが分かった。


 息を大きく吸う。


「すっごく好きな人がいるんです。一目惚れだったんです……」


 私はまるで学校での恋バナをするかのように、今まで夢に見てきたことを吉井さんに語りだした。




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