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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去13 その胸に深く


 冬はもうすぐそこまで来ている。


 誕生日パーティの残骸を背にして、私はアトリエの窓から厚い雲に覆われた空を見上げた。


 今夜は初雪が降るかもしれないと、気象予報士が言っていたっけ。ここの冬はまだ経験したことがないから、どれほど寒くなるんだろうと、今から憂鬱になる。


 寒いのは嫌いだ。特に吹雪は見ているだけで心が荒んでいく。クリスマスもお正月もバレンタインデーも、寒さを紛らわすために出来たイベントとしか思えない。


「心美、ずっと窓の近くにいたら風邪ひくよ」


 私は気安く名を呼ぶ声の主を振り返る。


 袋にゴミをつめながら忙しなく部屋を片づける柊平くんの姿を見たら、思わずくしゃみが出た。


「ほらね。言わんこっちゃない」


 柊平くんは流れ作業のように着ていたカーディガンを私の肩へかけると、すぐさま作業に戻っていった。


 私はブカブカのニットを鼻先につける。


 柊平くんの香りが鼻をくすぐる。今日は混じり気のない、いい匂いだ。


「ホント好きだね、掃除」

「はい?」

「いつもしてるじゃん」

「……誰もしないからでしょう!?怒るよホント!」

「もう怒ってるじゃん」


 笑顔で文句を言う柊平くんに、つくづくよく笑うようになったな……と思った。


 入学したての頃は、作品のイメージ通りにクールな人だと思ってた。心に湧いた色彩豊かな感情を、決して他人に悟られたくないタイプの人間だと。しかしどうやらそれは勘違いだったようで、コロコロと変わる表情に、何て分かりやすい人なんだろうと、第一印象が見事に覆った。


 なるほど、藤堂柊平とはこういう人だったか。


 性格と作風が必ずしも一致しないことは重々承知していたけど、こんなキャラならこう、もっとポップな絵を描きそうに見える。このテンションであの屍の山を描いてるところは、ちょっと想像できない。


 ま、それもこの人のストロングポイントか。


「ところで理央たちは?」

「さあ?秘密の場所にでもしけ込んでるんじゃない?」

「こら、女子高生がそんな言葉使わないの」


 まだ四時だというのに、辺りはもう日没を済ませたかように暗い。風も強くなってきて、寮までの道のりを考えるとため息が出る。はぁ。ご親切に部室をこんな僻地に作った奴には、感謝しか湧かない。


 目の前が暗くなったので振り返ると、片づけが終わった柊平くんが蛍光灯を遮るように私の前に立っていた。


「心美はこの後どうするの?彼氏のとこ?」

「残念ながら彼氏は地元に置いてきた」

「へえー、いたんだ」

「ショック?」

「俺も恋人はイタリアに置いてきた」

「へえー、いたんだ」

「ショック?」

「女ならね」

「なかなか上手い返しだ」

「どうしてそんなこと聞くの?デートにでも連れて行ってくれるつもり?」

「うん」


 どうせ「一人で可哀想に……」程度のことしか言われないと思っていたのに、予想外過ぎる返答に、私は柊平くんの顔を二度見する。


「嘘でしょ?」


「心美にとっては遊園地より楽しい場所だと思うけどね。さ、行こう」

「うん……」


 誘われるまま柊平くんの後について一階へ下りると、柊平くんは階段下のドアに鍵を差し込み、それを軽く回した。このドアの存在は知っていたけど、ここがどんな部屋なのかは知らされていない。


 ドアが開くと、暗闇の中に階段が降りていた。


「なにこれ」

「部長も知らない秘密の地下通路」

「地下になにがあるの?」

「収蔵庫。暗いから気をつけてね」


 手前のスイッチで灯りをつけると、その階段は十五段ほど地下へ続いていて、下に着くと、そこから真っ直ぐ奥へ廊下が伸びていた。


 リノリウムの床が不気味に足音を響かせる。


「収蔵庫って、なに?」

「ここの生徒が描いた作品で、賞を獲った作品や、外部から評価を得た作品を保管しておく場所だよ。たとえ将来プロになっても、在学中の作品はこの学校で管理することになる……って、入学する時、誓約書にサインしたでしょ?」

「ああ、確かそんなことも言われたっけ。著作権がどうのって。関係ないと思って、聞き流してたわ」

「今じゃ名の知れたデザイナーの絵とかもあってさ、美術館としてもとても見応えのある場所なんだよ」

「じゃあもしかして、柊平くんの絵もあるの?」

「『サルヴァツィオーネ』なら、確実にある」

「本当に!?」


 私の高音がよく響いて、自分で自分の声に耳を押さえる。


「ね、いいデートプランでしょ?」


 やった。あの絵をもう一度間近で見られるなんて!それだけでも、この学校に入った価値は充分にある。


「他には?古城のやつ!」

「あれは短期留学の時にフランスで描いたもので、確かもう誰かに買われたよ。どこの人だっけな、ドイツ?オーストリア?その辺だったはず」


「そうなんだ。でも『サルヴァツィオーネ』があるだけでも嬉しい!」

「そう言ってもらえて、僕も嬉しい限りです」


 地下に潜ってどのくらい歩いたろう。


 感覚的にはもう部室棟を通り越しているような気もする。しかし真っ直ぐ並ぶライトが行き先を照らしているものの、ゴールはまだ見えてこない。


 柊平くんと並んで歩くと幅いっぱいになってしまうこの狭い廊下は、埃の目立たないところを見るに、普段から割と頻繁に使われているようだ。


「この廊下は学校ができた頃からあるの?」

「そうだよ。美術部って元々は学生の作品を画商と売買する所でさ、作品を安全かつスムーズに動かせるようにって、収蔵庫まで地下通路を引いたんだ。美術部が生徒の行動エリアから少し離れたところにあるのは、画商に好き勝手校内を歩かせない為だったみたいだよ。つまり、知らないところで生徒と悪質な契約でもされたら大変だからね。僕が入学した頃は、もう今みたいに画商が学校の敷地内に入るのも禁止だったけど」

「そうなんだ。だから美術部はあんな辺鄙なところにあるんだ」

「ご不便かけますね」

「柊平くんもね」

「やっと着いた。ここだよ」


 突然現れたもう一つの階段を横目に通り過ぎると、重厚そうな鉄の扉が目の前に現れた。扉には “収蔵庫” と書かれたプレートがつけられていて、鍵を開けると、柊平くんが力を込めて扉を引く。


 部屋の中には、スチール棚いっぱいに作品が保管されていた。


「さて、お目当の作品はどこかな」


 収蔵作品の山の中を、私は柊平くんにぴたりとくっついて進んでいく。スチール棚に貼りつけられた制作年を目で追いながら、改めてこの学校の歴史の長さを感じた。


「あ、あった。これだ」


 柊平くんは立ち止まると、少し屈んで慎重にキャンバスを引き出す。


 顔を出したのは、確かに銀座の画廊で見た、あの絵だった。懐かしさにふっと吐息が漏れる。私はゆっくりとしゃがみ、真正面からそれと対峙した。


「久しぶりね。また会えてよかった」


 その女性はあの頃のままの凛とした姿で佇み、足元にある絶望を踏みつけ、目線は今でも天空の光明をしっかりと捉えている。


 彼女はどんな心情なのだろう。これはエンディングで、壮絶な戦いがたった今終わりを告げ、傷ついた体で次に訪れるはずのストーリーを見つめているのだろうか。それはきっと喜劇で、今ここにある現実は、もう見飽きられてしまった挿話だったと……。


 真相をすぐ後ろにいる作者に聞きてもいい。けれど正解を聞くより、自分の中で理解したいという感情が強く湧いた。


『どれだけの犠牲を生もうとも、幸福を求めてはいけない人間なんていない』


 この絵からは、そう強く言われているような気がした。


 私は思う。


 知らないわけじゃなかった。


 理央がどれだけ私のことを繋ぎ止めたいと思っていたか。


 でも激しい濁流に、幼い私はどうすることもできなかった。


 ならば思いきり傷つけてやろうと思った。


 他の誰もないこの私が。


 だから理央にできた大きな傷を見て、私は心の奥底で優越感に浸っている。


 その傷こそ、誰よりも近しい兄妹の証だと。



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