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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去11 宵星は決意と共に


 ざわつきは一瞬で耳に入ってきた。


 視線を上げた時にはもうそれは歓声に変わっていて、男女問わず辺りのみんなが一斉に立ち上がる。


 朝の穏やかな食堂が、わずか三秒でライブハウスに変わってしまったよう。歓声の中心を捉えようとしても、立ち上がった人たちが邪魔で、何も見えない。


 けど、見なくても分かる。誰がこうしているのか、誰に熱狂しているのか。


「おはよう。いやー、さすが文化祭当日ともなると、みんな浮き足立ってるわねぇ」


 たっぷりの時間をかけて現れたライブハウスの主役は、朝食の載ったトレーを私の目の前に置くと、周りの興奮ぶりに我関せずといった態度で、優雅に席に着く。


「あんたのせいで朝からうるっさくてたまんないわ」


 今にもキレそうな心美の整った横顔を見てから、私は改めて正面を向いた。


 「元気にしてた?」と言いたくなるくらい久々に見る男の子の理央は、テレビの中のアイドルみたいにかっこよくて、ますます大人っぽくなっている。


 理央ってこんなに素敵な人だったろうか?季節をいくつか遡ってみても、女の子みたいに綺麗で可愛い理央しか頭に浮かんでこなかった。


 理央の価値観を否定するわけじゃないけど、この見た目で普段スカートを履いてるなんて、勿体無いことこの上ない。


「なによ、真由。ニヤニヤしちゃって。あ、さてはこの大葉の卵焼きを狙ってるわね」


 問答無用に理央からだし巻き卵を口へ入れられると、「おはよう」も「かっこいいね」も登場するタイミングを失くし、大葉の香りを残した卵と一緒に、胃の奥底に落ちていった。


「理央がちゃんと言いつけを守るなんて、今夜は雨ね」

「ああ、これ?」


 心美の嫌味に、理央がネクタイをヒラヒラさせる。


「知らない内にセツナがクリーニングに出してくれたみたいでね、わざわざハンガーに掛けられてたの。で、スカートの方は行方不明」


 理央を包むパリッとしたワイシャツはボタンが二つ開けられていて、その首元からブリティッシュグリーンのネクタイが気だるそうに垂れている。長い髪はワックスで形作られ、ゴムでゆるく後ろに束ねられていた。


 そんな風貌で気怠そうに窓の外を見る姿は、もはや芸術品だと、私のすぐ後ろに座っている女子たちが小声で話している。


「ところでセツナは?」


 このイケメンを作った立役者と言っても過言ではないセツナの席が、今朝はポツンと空いている。


「随分早くに起きて、紗夜ちゃんの手伝いに行ったわ」

「何かあるの?」

「受付の準備があるみたい」

「あ、そっか。今年は紗夜ちゃんが当番だって言ってたもんね」


 理央は気まずそうに私へ目を合わせると、すぐに外し、会話をそこで終わらせてしまう。


 最近の理央との会話はいつもこんな感じ。少し前までは目を合わせただけで会話ができたのに、今じゃ出会った頃のように距離を取られている。ちょっと寂しいけど、私が何か言える立場でもない。なんてったって、人気者の理央だ。私が独占できる時間なんて、そうそうない。


 理央が食べ終わったところで、見計らってたかのように女の子たちが寄ってくる。その先頭に立つリーダー格の子が、サラサラの長い髪をなびかせながら堂々と歩いてくるから、私は思わず下を向いた。


「理~央!今日はかっこいーじゃん!」


 彼女は気安く理央の肩に腕を回して、理央を間近に覗き込む。


「なぁに?嫌味?」

「嫌味じゃないよ、本音。毎日その格好の方がいいって、みんな言ってるよ?」


 その子の言葉に、後ろにくっついている何人かが、大げさに頷いて見せる。


「そうそう。せっかくのいい素材が勿体ないよ」

「学校で一番のイケメンなのに、ねぇ」


 私が密かに思っていたことを、この子たちは理央の前でいとも簡単に言ってみせる。「理央の気も知らないで」と反論できる資格は、今の私にはない。


 隣の心美は立ち去りもせずに、頬杖をつきながら理央たちの様子を眺めていた。


「ねぇ理央、後で一緒に回らない?うちの部長のクラスがカフェやるの。部長、理央の大ファンだからさ、顔出してあげてよ」

「OK、喜んで」


 理央の返事に、一行がキャーキャーと甲高い声をあげる。心美は顔をしかめて、大袈裟に両手で耳を押さえた。


「じゃあ理央の空き時間に迎え行くから、後で連絡ちょうだい」

「分かったわ」


 理央が「じゃあもうお喋りは終わり」と言わんばかりに右手を上げると、リーダー格の子があからさまに私を一瞥して去っていくのが分かった。それが苦痛で、私は更に視線を下げた。


「真由、私たちは自由時間どうする?」


 やっと耳から手を離した心美が、トレーにお皿を重ねながら聞いてくる。


「うーん、私、万華鏡作りたいな」

「ああ、二年生のお店ね。了解」


 そうして私たちは登校してHRを済ませると、それぞれ自分の持ち場へと向かった。



 文化祭にやってきたお客さんは想像以上の数で、朝から目が回るほど働かされた私は、委員長の粋な計らいで、たまったゴミを捨てに行くという有難い仕事を頂戴した。喜んでエプロンを外し、文化祭の賑わいを肌で感じつつ集積場に着くと、そこでばったり久世くんと出くわした。


 反射的にお辞儀をすると、久世くんも頭を下げる。花火大会の途中で別れてから今までずっと、話しなんてしてなかったから、どう切り出そうか悩んだ。


「なんか久しぶりだね。校内ではよく見かけるのに」


 私の様子を察してか、久世くんの方から話しかけてくれて、一先ずほっとする。


「うん。文化祭の準備とかでバタバタだったからね」

「うん」


 生け垣の向こうから文化祭の喧騒が聞こえてくる。

 ここは静かで、二人の間に乾いた風が通り過ぎていく。


「久世くん、ごめんね、花火大会のとき」


 涼やかな風は、私に夏祭りのワンシーンを思い起こさせた。


 突然現れた心美に手を引かれて立ち去る私と、それを見つめる久世くんの呆然とした顔。あの後、久世くんは友達からなにか嫌なことを言われなかっただろうか。友達とギクシャクするようなことに、なったりしなかっただろうか。


 原因は私なのに、それを知るのが怖くて、忙しさにかまけて謝罪を今日まで先延ばしにしてしまった。


「ううん、こっちこそ、気を使えなくてごめんね。櫻井さんと仲よかったもんね。一緒に見たかったよね」


 予想もしてなかった久世くんの優しさに返す言葉を探すも、相応しいものはすぐに見つからない。


 あの時の事情をどう説明すれば納得してもらえるだろうか。久世くんは悪くないと、どう言えば上手く伝わるだろう。


「それに、噂もごめんね。俺なんかが相手で」

「あっ……」


 そう。最近やたらと囁かれている、私と久世くんの噂についても謝らねばならなかった。


 久世くんが謝ることじゃない。私がしっかりしてないから、久世くんが変な噂に巻き込まれてしまったんだ。


「正直言うと、気分が良かったんだ。真由ちゃんとああやって噂されて。だから否定もせずに今日まで来ちゃった。ごめんね、迷惑だったよね」


 へへ、と笑いながら、久世くんが頭をかく。


「迷惑じゃないよ。久世くんは何も悪くない」


 どうしよう。今日は何だかうまく話せない。

 もっと言わなきゃいけないことがたくさんあるのに、心だけが焦って、思ってることが上手く頭の中で言葉になってくれない。


 えっとー

 えっと...。


 まず先に、何から言えばいいんだっけ。


「さっき、柊と会って少し話たんだ」

「理央と?」


 久世くんの話の変わり様に、ただでさえフル回転の頭が、キャパオーバーで真っ白になる。


「花火の件も、噂の件も、申し訳ないって謝っておいた」


 急に出てきた理央の名前に加え、久世くんが理央に謝ったという発言に戸惑って、私は完全に話を見失う。


「どうして……」

「柊、あんな格好してるからさ、気づかなかったんだ。別に悪気はなかったんだよ。それだけはちゃんと柊に伝えたくて」


 久世くんが何を言っているのかさっぱり分からない。でも質問できるような空気ではなくて、だから私はただ黙って、久世くんの柔らかで、でも少し苦しそうな笑顔を見つめた。


「大事にしてもらいなね。真由ちゃん」


 そう言うと久世くんは、私の言葉も待たずに歩き出してしまう。生け垣の向こうから、いつも久世くんと一緒にいる友達が私に向かって会釈をしてくれたから、私も丁寧に頭を下げた。


「久世くん、今なんて言ってたっけ。あんな格好……?」


 会話を振り返ってみても、やっぱり話が理解できない。それより何より、久世くんと理央に接点があったことに、ただただ驚いた。


 私は素早くゴミを捨てると、心美に事情を聞くために、部室へと急ぐことにした。


 普段の理央の、久世くんに対するあの口振り。場合によっては、改めて久世くんに謝りに行かなきゃならないかもしれない。


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