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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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現在1 心美31歳/春


 歩を進めるごとに木漏れ日がチカチカと点滅する。その眩しさに足を止めて頭上を仰ぎ見ると、青々と生い茂った木々の向こうに、春麗らかな青空が広がっていた。


 さすがにこれほど高地まで来ると、都会のように不快な湿気は感じられない。しばらく歩いて体は暑いのに、汗は然程かいていなかった。


 石畳の道を、履き慣れたスニーカーでぐんぐん登っていく。あの頃はこんな坂道くらい、少し走ったところで息も上がらなかったのに、今は普通に歩くだけで呼吸が乱れる。


 加齢に加えて日頃の運動不足か、はたまたタバコで肺が弱ったか。私は錆びついていく体にげんなりした。


 家を出てもうすぐ四時間が経つ。途中、夫の実家へ娘を預けたりもしたが、こんなに長時間の大移動は久しぶりだ。もしかしたら、新婚旅行以来かもしれない。


 娘は今頃、夫の両親と遊園地だろう。こんな時くらい思いきり甘やかされてくればいい。そのくらい彼女は、日頃から文句ひとつ言わずに家のことを手伝ってくれる。父親があまり家にいないから、私が大変だと気を使ってくれているのだろう。


 やっと目の前に校舎の一部が現れた。あの頃と変わらない、異国の城のようなとんがり屋根。そこからは石垣に沿って更に山の奥へ歩いていく。さっき見えた校舎の屋根の、ちょうど側面が見えるところに学校の裏門があったはずだ。


 目的地は、そこから更に山奥にある。


「あれ?」


 声を出したのは同時で、お互いびっくりした顔でその場に佇む。


 突然目の前に現れたのは、意識して記憶から遠ざけようとしていた、十数年振りに会う懐かしい友人だった。


「心美じゃん!」

「真由じゃん!」


 自分でも驚くくらいごく自然に、私たちは荷物を放り出して抱きしめ合う。


「心美、大人になった!」


 真由は今にも泣きそうな顔で私の顔を覗き込み、それに釣られて私の目にも涙がたまる。


「真由もね。元気だった?」

「うん、風邪ひとつひいてない!」


 本当はずっと気になっていて、何度も会いたいと思っていた友人。こうして元気そうにしていることがとても嬉しくて、何より昔と少しも変わらない笑顔に安堵した。


 まさかこんなところで真由と再会できるなんて。


「真由、会えて良かったよ」

「うん。私もね、今日は一人かなって思ってた」


 ここでこうしているということは、きっと真由もあの手紙を受け取ったに違いない。私は上着のポケットに入れた手紙を探った。


「あれ…?」


 真由が地面に落ちた鞄を拾い上げると、私の後方へ視線を向ける。それを追うように振り返ると、向こうから真っ赤なロードスターがこちらへ走ってくるのが見えた。


 こんな場所へ用事がある人間なんて限られている。私たちは顔を見合せ、荷物と共に道の脇へ避けた。


「しっかし派手な車」


イメージ通りというか、気取っているというか。


「私、CMで見たよ。缶コーヒーのと、求人サイトのやつ」

「娘が好きでさ。着ぐるみ着て踊ってるやつ」

「猫のね!あれかわいいよね、思わず懸賞応募しちゃったよ」


 真由が言いながらダンスを真似る。


「うちもだよ」


 ちょうど二人の前で止まった車の窓から、話しをしていた残りのピースが顔を出す。


「久しぶりね。真由に、心美」


 大きなサングラスをずらしながら、理央が上目遣いで微笑んだ。



 これで三人、全員揃った。



 裏門まであと百メートルというところで車を降りた理央は、東京からここまで送ってもらった相手になんのお礼も言わず、軽やかに森の奥へ歩きだす。それを見ていた真由が慌てて止めようとするが、理央はこちらを見ようともしない。


 ここの姉弟仲は相変わらずらしい。


「ご無沙汰してます。心美も真由さんもお元気そうで安心しました」


 整った顔に大きな瞳。理央にそっくりな双子の弟が、わざわざ車から降りて頭を下げる。


「玲央も元気そうでなにより。こんなところまで理央を連れてくるなんて、過保護もいいところだね」


 確かにこのくらい律儀な方が、芸能人のマネージャーには適しているのかもしれない。というより、これが普通か?さっそく理央の非常識な毒にあたったかもしれない。


「理央を一人で来させるのは心配で……」


 子供の頃仲良く遊んだあの双子も、今やCMを八本も抱える人気モデルとその敏腕マネージャー。人生はどうなるか分からないものだ。


「心美、理央のことよろしく頼む」

「うん、心配しなくても大丈夫」


 理央が真由を振り払ってお構い無しに先へ行ってしまったので、私と真由は挨拶もそこそこに玲央と別れた。


 玲央の乗り込んだ車があっという間に遠ざかっていく。


「玲央くん、相変わらずイケメンだったね」

「生まれた時からさほど変わらないから、一生あんな感じだろうね」


 後方を振り返りながら、マネージャーにしておくなんて勿体ないと、真由が真顔で呟いた。


 私と真由は理央に追いつき、更に傾斜がきつくなる坂道を三人で進む。在学中よりもこの道に距離を感じるのは、やっぱり体力が落ちたからに違いない。真横に並ぶ二人の息遣いからして、私だけの問題じゃないのが唯一の救いか。


「そうだ、理央の新しいCM見たよ。缶コーヒのやつ、コミカルで好き」


 気を遣ってか、真由が明るい声で話しかける。


「あの汗だくのやつね。あれ、本当に南の島の炎天下で撮影したのよ。本気で死ぬかと思ったから、ウケてくれてすごく嬉しい」


 理央が満面の笑みで答えてくれたので、私と真由は目を合わせて安堵する。どうやら機嫌が悪い訳じゃなさそうだ。真由が続ける。


「柔軟剤のCMも幻想的だよね。夜の森のメリーゴーランドで、二人が見つめ合うやつ!」

「真由の趣味は相変わらずね」

「あのシーンは女性ならみんな憧れちゃうよ」

「そんなことに憧れてると嫁に行きそびれるわよ?」


 「元気だった?」とか「今どこに住んでるの?」とかを質問しない辺りが、実に理央っぽい。私は二人のはしゃいだ声を聞きながら、このワンシーンだけでもここへ来たことを後悔しなかった。


 ふとポケットに入れた手にあの手紙が触れる。


 二人は何を思ってここへ来たのだろうか。


 向かっている場所も目的も一致しているはずなのに、誰も話そうとはしない。


 不安なのは私だけなのだろうか。


 私だけが、過去の扉を開けようか迷っているのだろうか。


「もうすぐ小道だよね?」


 真由が辺りを見渡す。私たちの記憶が正しければ、もうそろそろ左に曲がる小道があるはずだ。


「ここだわ。薮に埋もれて分からなかった」


 理央が雑草の中から年季の入ったロープを引っ張り上げる。


 確かにここが小道への入り口らしい。


「立ち入り禁止の板はどっかにいっちゃったんだね」

「あ、下に落ちてる」


 ロープの真下に土と同化しかけた板を見つけて持ち上げてみる。辛うじて立ち入り禁止の文字を読み取ることができた。


「あの頃はしっかり文字も読めて、すぐに小道も見えたのに。こんな風になっちゃうほど長く時間が経ったんだね……」


 真由が感慨深そうに呟く。


「ここが立ち入り禁止になって、もう十五年だものね。こうなってても仕方ないわ」


 理央の言う通り、あれから誰もこの小道へ踏み込んでいないと思えるくらい、ここは人の通った痕跡がまるでない。

 ふと考える。


 入り口がこんな状態ということは、私たちが受け取った手紙の送り主は、まだこの中へは入っていないということだろうか?


 同じことを思ったのか、理央と目が合う。


 本当にここを進んで大丈夫なのだろうか。


「じゃ、とりあえず入ってみますか」


 一番に藪を嫌がりそうな理央が先頭を切って入っていったので、私と真由もその後を続いた。



 入り口の藪を越えると、細いながらも道が開けた。真ん中を歩いても両腕に草が触れるくらいの僅かな幅しかないが、踏み固められた地面が行き先を導いてくれている。良かった、ずっと藪のなかを進むとなると、途中で全員リタイアだ。足元に気をつけながら、理央、私、真由の順番で進んでいく。


 歩きにくい上、徐々に目的地へ近づいているからか、三人とも口数が極端に減る。無心に近い状態で十分ほど歩いたところで、理央が日向との境界線で立ち止まった。


「着いたわ」


 雑草だらけの庭先に三人で並び、私たちはそれを眺めた。

 記憶のままログハウスが、森の中にひっそりと佇んでいる。カーテンもデッキに置かれた折り畳みのイスも、かなりの劣化こそしているが、当時と同じままそこに存在している。


 私たちが高校時代に何度も訪れた場所。


 私たちの秘密の部室。


 もう訪れることはないと思っていたこの場所に立つと、足が震えた。あまりにも多すぎる思い出がどっと溢れだし、私は嬉しいのか悲しいのかよく分からない感情に包まれた。


 戻ってきたのだ。ついに、この場所に。


「行こう」


 拳を握って真由が歩きだす。


 雑草を掻き分け玄関ポーチの階段を上がると、ドアは目の前にある。私はポケットの中の手紙に触れながら、試しにチャイムを鳴らしてみた。しかし三度鳴らしても、反応は何もない。


「誰もいないのかな?鍵、持ってないけど……」


 真由が困り顔で聞く。


「昔の鍵なら持ってきたわよ。卒業するときに職員室から盗んでおいたのよね」


 理央が自慢気に手に持った鍵を振るものだから、私と真由は呆れつつ、立ち位置を変えて理央に鍵を開けさせた。


 映画の見すぎかもしれないが、中に入った瞬間に待ち構えていた誰かに襲われる、なんてことはないだろうか。こちらは三人とはいえ、できるだけ静かに入った方が良さそうだ。


 ガチャリ、と重い音がして鍵が開いた。


「どうする、入る?」


 理央が振り向いて確認する。


「ここまで来たなら、入るしかない」


 私は怖がる理央を押し退けて、すぐに逃げられるように靴のまま中に入った。


 真っ先に新鮮な空気の匂いが鼻につき、次に二階の窓から差し込む陽に埃が輝いている様子が目に入る。私は大きな疑問符を頭に浮かべ、そのままぐるりと辺りを見渡した。


 続いて私の目に飛び込んできたのは、玄関に飾られてある大きな油絵。その横にある三人で作ったコート掛けを通過し、シューズボックスの上の花瓶や置物をチェックする。どれも記憶と寸分違わない状態で置かれていた。


 私は思わず動きを止める。


「なんだか懐かしい。あの頃のままね」


 そう言いながら理央も靴のまま上がり込む。コツコツとヒールの音がフローリングによく響いた。


「外の状態からすれば中は綺麗だね。最近……というか、まだ日常的に使ってるみたい。ここが封鎖されてもう十五年も経つのに……」

 真由がドアを閉めた玄関からこちらを覗く。


「確かにね。床にも埃が溜まってないわ。やっぱり今も使われてるのかしら?」


 理央と真由が壁や階段を手で撫でて確認する。


 ここに入った瞬間に襲った、強烈な違和感はそれだった。小道や庭先のことを考えると、この家の中は綺麗すぎる。二人の言うように、いまだ頻繁に人の出入りがありそうなほど、綺麗に掃除されているのだ。


 それでは何故、外はあれほど荒れていた?


「どうする、上、行ってみる?」


 理央が人差し指を上に向ける。


「うん、そうしよう。誰かが私たちを待ってるかもしれない」


 私は不穏な緊張感で押し潰されそうになりながら、二階へ続く階段をゆっくりと上った。



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