過去9 pure heart②
「まさか」
「じゃなきゃ、鎖国解除の日にわざわざ真由を誘わないでしょ。逆に真由ならどう?知り合って数ヶ月の、なんとも思ってない子を、そんな日にデートに誘う?」
心美の放つ「好きなんだよ」や、「デート」という言葉に、私の小さな心臓がドキドキしはじめる。そんなキラキラしたこと、私には無関係だと思ってたのに、突然目の前に現れて、それは楽しそうにひらひら舞っている。
「久世くんはいい子だと思う。でも真由にその気がないのなら、もう相手にしちゃだめ。久世くんのこと傷つけることになるよ……って、聞いてるの、真由」
「私、久世くんのこと、嫌いじゃないかも」
思えば今まで、男の子と仲良くなったのは理央だけだ。だからなにか勘違いしてたのかもしれない。理央のこと、もしかしたら好きなのかもしれないって、実は心の奥で少しだけ思ってた。でも、心美に対する感情と同じように、単なる尊敬だったんじゃないかな。
才能があって、器用で、人気者で、綺麗で。だから、憧れと好意をごちゃ混ぜにしてたのかも。
考えてるうちに、久世くんから届いたメッセージの内容を思い出した。
『お盆には戻るつもりだから、 良かったら一緒に夏祭りに行きませんか?』
心臓が高鳴る。高鳴って、ふわふわする。
こんな気持ち、はじめてだ。
「どうしよっかな……」
職員玄関のポストの前で、私はもうどのくらい悩んでるだろう。
右手に握っているこの手紙を投函するかしないかじゃない。どうやって久世くんに返事を打てばいいのか、よく分からないからだ。久世くんがお祭りに誘ってくれたのはとても嬉しい。けど、一人で浮き足立つのはなんだか恐い。どう返せば軽い感じになるだろう。
それと同時に、夏祭りはなんとなく心美と理央の三人で行くものだと思ってたから、本当にそれでいいのか、少しだけ迷っていた。いっそのこと、二人も誘って四人で行こうか。だめだ。あの二人のことだから、久世くんが来ると知ったら、絶対に来ないに決まってる。
「せっかく切手まで貼ったのに、出そうか迷ってるの?」
横から柊平くんの声がして、私はポストの前から一歩退く。
「あ、違くて……」
柊平くんはポストへ三通の茶封筒を入れると、手元を見つめていた私を見下ろした。
「それ、お母さんの名前?」
「はい」
周りの木々から、耳を塞ぎたいほど騒がしい蝉の声が響く。パワー全開の日差しは建物に遮られ、私と柊平くんに影を落とす。日向に出れば途端に汗がにじむのに、ここは湿気が少ないせいか、日陰だと涼やかな風が体を通り過ぎていく。
「僕のは三通とも昔ここで働いてた先生たちへ。オープンスクールの手伝いをお願いしようと思ってね。そう言えば、家族に手紙なんて送ったことがないな」
手紙を出し終えた柊平くんは、日向に出るのをためらっているかのように、日陰ぎりぎりのところで空を見上げている。ここから美術部へは大きな日陰があまりないから、出て行くのに覚悟がいるのかもしれない。
私はやっとポストに手紙を落とすと、柊平くんの横に並んで「行きましょう」と歩き出した。
「手紙もいいけど、せっかく夏休みだし、お母さんに会いに行ってあげたらどう?」
なるべく日陰を踏もうと、私たちは蛇行して歩く。
「会えないんです。多分、もう一生。あの手紙もポストに入れただけで、母には届きません」
私の言葉に、柊平くんが木立の下で立ち止まる。
頭が影に入って、表情はよく見えない。
「ごめん、デリカシーのないことを言っちゃったね」
「いいんです。自分なりに納得してるから」
私も小さな影に入って、二人でしばらく風にあたる。
ふと柊平くんが、遠くを見ながら私の頭に手を乗せた。
誰かに頭を撫でられるなんて、いつ振りだろう。お父さんはよく髪を撫でてくれた。私が絵を描くたびに喜んで、完成すると優しく抱き上げてくれた。
あんなに喜んでくれたのに……。
もし私が有名な画家になったら、お父さん、私のことを思い出して戻ってきてくれるかな。
そうしたらお母さんも……
きっと、お母さんも。
「そっか」
「別に亡くなったとかじゃなくて。訳あって会えなくなっちゃって。きっとどこかで、元気にしてると思います」
「真由ちゃんの気持ちは、手紙が届かなくてもきっとお母さんに伝わってると思うよ。お母さんってエスパーだからね」
「はい」
追い風に背を押されて、私たちはまた歩き出す。美術部まであと少しのところで、とうとうこめかみから汗が一筋流れた。
「しかし暑いね。僕がいた頃はもっと涼しかったはずなのに。これじゃ冬の厳しさが損みたいだ」
「柊平くんがいた頃も、美術部はあんな遠くに?」
「うん。校舎の方は何度も改築して少し変わってるけど、部室棟と美術部は何も変わってない。あの頃は冬の移動の方が寒くて大変だったよ」
「この辺はたくさん雪が降るって聞きました」
「毎年先生たちが総出で雪かきをしてくれるんだけど、それでも追いつかない時が何度かあったな。そんな時は町の人が応援に来てくれてさ、見てるだけじゃ申し訳なくて手伝おうとしたら、危ないから校舎に入ってろって怒られたことがある」
「雪かきって、そんなに危ないの?」
「機械を使うとね。巻き込まれたら大惨事になるから」
「よく北海道で使ってるやつだ」
「そうそう。学校にも大きいのから小さいのまで揃ってる。雪だるまなんて、作り飽きるくらい雪が降るんだよ」
相変わらず照りつける太陽は暑いけど、涼しい話題で少し元気が出た。
「早く冬にならないかなぁ。かまくら作って、中でみかん食べないと」
「そうだね。でもその前にやらなきゃいけないことが沢山ある」
「夏祭りに、ハロウィンに、誕生日!」
「誕生日?いつ?」
「十一月三十日!」
「ジオン軍がジャブロー降下作戦に失敗した日じゃないか。すごいね」
「心美と理央も同じ誕生日なの!」
「そうなの?」
「そう!すごい偶然でしょう。同じだけ生きてるのに、なんで私だけ体が小さいんだろう?」
「ちょっと真由ちゃん、暑いんだから笑わせないでよ」
やっと外階段の下まで来ると、私は柊平くんをアトリエに行かせないために、わざと階段の中央に立って通せんぼする。
「心美、きっと裏かな」
「あの人、またサボってるの」
「柊平くん、心美のことよろしくお願いします」
私に突然そう言われて、目の前にある柊平くんの茶色い瞳がやや細くなる。
「残念ながら、心美とはそういうのじゃないよ。それに例え僕が教師じゃなくても、三十半ばのおじさんが高校生に手を出だすのは、法律が許さない」
こんなに人から真っ直ぐ目を合わせられたことなんてないから、私はつい観察するように柊平くんの目に見入ってしまう。潤った瞳がキラキラして、水晶みたいでとても綺麗。理央の目もよく覗き込めば、こんなに綺麗な瞳をしてるのかな。
「あー、でも、うん。時間が許す限り、健全な意味で “よろしく” はするつもりだよ」
柊平くんはとてもゆっくりとした瞬きで視線を解くと、笑みを残して裏庭へ向かっていった。
物を見て、相手に簡単な意思表示をするために存在していると思っていた目が、たった今、私の中で、何か漠然とした大きな意味を持ちはじめたような気がした。




