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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去8 主観による客観


 慌ただしく日々を送るうちに季節は変わり、いつの間にか近くの田んぼから蛙の大合唱が聞こえるようになった。


 去年の今ごろは、何をしてただろう。柊平さんのことを想いながら、だらだらと残業でもしていたんだろうか。


 あの頃の自分を懐かしく思ってしまうほど、今は何もかもが変わってしまった。


 一年前の私と今日の私とでは、どちらが幸せ?


 考えてみても、余りにも得たものと失ったものが大きすぎて、答えは出せなかった。



 いつものように私が夕飯を作り、二人きりの和やかな食事を終えると、私は居間のテーブルから、台所に立つ柊平さんをぼんやり眺めた。


 お皿洗いに集中している柊平さんの、意外と広くて筋肉質な背中を、ちょうど握っていたボールペンで、ちょうど手元にあった新聞広告の裏にデッサンする。


 そういえば、明るいところでまじまじと柊平さんの素肌を見たことがないな……と、今更はじめて柊平さんの気づかいを知った。


 柊平さんの肌を見るということは、私の肌も見せなければならない。そういえば柊平さんが胸元の傷跡に直接触れたのも、最初にこの家に来た時だけだった。


「紗夜さん、今日はデザートがあります」


 最後のお皿を拭き終えた柊平さんが、こちらを振り返って微笑む。


「デザート?」

「梅原部長のお父様から、内密に福砂屋のカステラを頂戴しました」

「ああ、確か梅原くんは長崎出身でしたね」

「お父様がちょうどこちらで仕事があるとかで、梅原くんのお迎えに来たんです。その時に」


 柊平くんは沸騰した薬缶を火から下ろすと、湯呑みに熱い玄米茶を淹れる。私はその間に取り皿と黒文字を用意して、箱から慎重にカステラを取り出した。


「私、福砂屋のカステラって食べるの初めて!」

「紗夜さんが来るタイミングで貰えてよかった」


 久しぶりに食べたカステラはとても甘くて、それだけで疲れた体が元気になっていくのを感じる。カステラを堪能しながら、私たちはしばし生徒の話に花を咲かせた。


「でさ、普通そこまでいったら、そのまま付き合っちゃうでしょ?でも今の子は変に奥手だから、まだ仲良くお友達をやってるんだよ。なんか見てるこっちがイライラする。あ、これは告げ口とかじゃないですよ?今はオフだから」


 生徒……特に、理央ちゃんの話をする時の柊平さんは、いつも楽しそうだ。


 どこか相通じるものがあるのか、理央ちゃんが日々課せられるデッサンのストレスで鉛筆をへし折ったり、木炭を窓の外へ放り投げた時も、柊平さんは笑って理央ちゃんの味方をした。


 正直なところ、未だ理央ちゃんの問題児感を拭えきれない私に、柊平さんはいつも「あの子は近いうちに必ず大成するから」と慰めてくれる。


 私にだって理央ちゃんに表現の才能があることくらいは分かってる。けれど担任として、理央ちゃんの予想のつかない行動には毎回ハラハラさせられてしまうんだ。


 『手がかかる生徒ほど可愛い』なんて思える余裕は、未熟な私にはない。……まだ、ない。


 柊平さんは早くも三切れ目に手を伸ばす。私も続きたいところだけど、明日の後悔を思って止めておく。柊平さんの燃焼力がありそうな筋肉が、実に羨ましい。


「理央って、他の女の子とは人前でも簡単に肩組んだりするのにね。真由ちゃんとは、俺たちの前じゃ手も繋げない」


 今まで勢いよく喋っていた柊平さんの、一瞬のそよ風のような声に、私の心が小石につまずいた。


 私はそんな恋をしたことがない。


 中学の時、初めて人を好きになった。けれどその小さな恋は、もどかしい気持ちを経験するよりも前に、津波のような病気に、あっという間に沖の彼方まで流されてしまった。


 あれから私が恋した人は、茉莉子が愛した人だった。


 出会う前から好きだった。


 出会う前から、知ってしまっていた。


「本気だから奥手になる……」


 だから、私の口から飛び出たこんな言葉も、自分の中に実体なんてない、可笑しな虚構だ。


「そうだね」

「理央ちゃんはああ見えて、仲間に対してはとても真面目で思慮深いんです。初恋だと思うし、邪魔しちゃだめですよ?」

「はい」


 別に卑屈になってるわけじゃない。これが私の人生だと、強がりでも受け入れている。


「柊平さんは初……」


 言ってしまってから、言おうとしてることが不適切な話題であることに気がついた。


 私はまだ茉莉子から記憶を受け継いだことも、橘先生から事実を告げられたことも柊平さんには言ってないのだから、安易に昔話に首を突っ込むのはまずい。

 なにより、むやみに茉莉子のことを思い出させてしまうのは可哀相だと思った。


「初恋のこと?」

「まぁ……」


 そういえばセツナくんのことを心臓から教えてもらったと言った後も、柊平さんは詳しいことを聞いてこなかった。助かってはいるものの、少し不安ではある。柊平さんはあの時の私の台詞をどう捉えているのだろう。それとも、そんなこともう忘れてしまったか。


「うーん、困ったな」

「いいんです。間違えました」

「間違えたんですか?」

「すみません……」

「俺が恋バナの相手じゃだめってこと?」

「だめという訳じゃ」

「じゃあ、紗夜さんから… 」

「私にはそういうのはありません。だから間違えたんです」


 別に卑屈になっているわけじゃない。


 なのに、声に出すと不本意にもそう聞こえてしまうのか、柊平さんは黙ってしまった。


「本当に、生きてるだけで御の字なんです。だから……」

「これ、どうぞ」


 柊平くんは新たに自分お皿に載っけたカステラを半分こにすると、私のところへ分けてくれた。


「大丈夫。きっと紗夜さんにも、これからそういう人が現れます」


 さらりと言われた言葉に、私は敏感に反応する。


「これからって、私もうおばさんですよ?」


 色々な意味でショックなはずの言葉なのに、私は笑いながら何を言ってるんだろう。


 完全に出口を見失った会話に、私は後悔と同時に罪悪感を感じた。


「ということは、俺のこと本気じゃなかったんですね。まぁいいですけど。俺もおじさんなので」


 柊平さんはそんな私を見かねたのか、いかにも冗談ぽくそう返してくれたので、辛うじて場が和んだ。


 また柊平さんに余計な気を使わせてしまった。


 しがらみが多すぎて、私たちの心の距離は一向に縮まらない。




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