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黎明の森に深く沈む  作者: 津村
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過去7 それは雨上がりを待つ花のような⑤


 真面目な顔をして疑問符を二回も繰り返す柊平くんが何だかとても可愛く見えて、私は自分のことなのに無性に笑えてきた。


「さぁ?それは真由が行きたかったからじゃない?」

「真由ちゃん、昨日は理央のことすごく心配してたんだぞ。風邪で死ぬ人の割合とか、早く治るおまじないまで調べてさ。なのに、なんで今日になって急にあの子?お兄さん、この急展開についていけないよ 」

「お兄さん……?」

「笑い事じゃないでしょう」


 あんなに切羽詰まって、今だって絶望の淵に立たされているのに、柊平くんにあの子あの子と言われると、なんだかこんなこと、どうでもいいような気になってくる。


 真由がやりたいことをすればいい。私がしてあげられないことは、誰かにしてもらえばいい。


 それだけのことだ。


「計画はしてたのよ。街まで出かけて、映画でも見ましょうって。でも、雨だからって私が中止にしたの。そうしたらタイミングよく “あの子” に声をかけられたみたいね」

「雨だとデートできないの?水に触れたらパンダになるとか?」

「呪泉郷に落ちた覚えはないけど、呪いと言えば、まぁそんなところ。真由とは雨の日に街を歩きたくないの」


 練ってしっかりツヤのでたココアに残りの牛乳を入れると、最後にほんの僅か塩を加える。軽く混ぜて一口飲むと、甘いココアの香りが口いっぱいに広がった。


「トラウマがあるの。泣きじゃくってる真由を連れて、雨の日に街をあてもなく歩いたことがあってね。慰めようにも言葉がなくて、どうやって泣き止ませればいいのかも分からなくて……。それで、今でも雨の日とあのシーンがすぐに結びついちゃうの」


 冷たい雨は、傘のない二人に容赦なく降り注ぐ。


 それを背中に浴びるほど、真由の隣にいたいと願うことすら、大罪のように思えたあの日。


 泣き止んでくれ、

 降り止んでくれ、

 必死に願っても、私は真由の震える肩に指一本触れることができなかった。


「そうか……」


 腕組みをしていた柊平くんの手が、私の後頭部に優しく触れる。


「ま、来週があるよ。梅雨なんてもうすぐ明けるし、あっという間に夏休みだ」

「夏休みねぇ……どうせ山みたいな課題が出るんでしょう?」

「朗報。うちの学校は一般校より圧倒的に課題が少ないんだよ」

「んまぁ!」

「その代わりコンクールだ。そろそろ攻め込む角度くらいは決めておいた方がいいよ。遊び呆けてれば、あっという間に夏なんて過ぎてくから。これ、OBからのありがたい助言」

「経験談?」

「そんなとこ」


 柊平くんがその場でカップラーメンをすすりはじめると、急に外からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきて、二人でドアを見つめる。


「ネズミでも出たかな?」


 柊平くんがそう呟いた時、給湯室のドアが大きな音を立てて開いた。驚いた私と柊平くんは、その場で身を硬直させる。


「あ!いた!せんぱーい、理央いましたー!」


 真由が外に向かって叫ぶと、遠くから微かに「はーい」と女の子の声が返ってくる。


一体何事だ。 なぜ真由がここにいる。


「理央、風邪もう大丈夫なの?」

「あ……ああ、うん、平気」

「良かった。ね、見て!あったよ、最後のいっこ!」


 混乱している私に真由が見せてきたのは、私が好きなキャラクターのストラップで、大人気商品につき、発売後すぐに売り切れてしまった、とても貴重なものだった。


 今日から再販することは前々から知っていたけど、今回の件ですっかり諦めていたストラップが、真由の中指にかけられて私ににっこり笑いかけている。


「どうして……」

「理央、風邪だし雨だしで、絶対に出てこられなかったでしょ?だから私が代わりに買ってきてあげたんだよ」


 満面の笑みの真由に、私は驚きを通り越して頭が真っ白になる。


「だってあいつと……」

「そう!このグッズ売ってるお店、どうしても一人じゃ入れなくて……心美には振られるし、ちょうど久世くんが声かけてくれてよかったよー」


 隣に立つ柊平くんが、麺をすすろうにも笑ってしまって、一人で盛大にむせている。


「あと映画ね、大ヒットでロングランが決まって、あと半月はやってるって。だから来週は絶対に行こうね!」

「そ、そうね……」


 なんだか状況がよく分からないけど、例えいけ好かない奴と二人で出かけてしまっても、確かに真由の中に私という存在があったことが、今はとても嬉しくて、感動した。


 今すぐ真由を抱きしめたい。抱きしめて、その丸い頭を撫で回したい!のに、至近距離に邪魔者がいてそれができない。柊平くんは気を利かせて立ち去ろうともせずに、カップラーメンを持っていつまでもそこに突っ立っている。


「ところで真由ちゃん 、映画って?」

「話題になってる、 生徒が先生を好きになる、少女漫画が原作のやつ。すごく泣けるんだって」

「ああ、あれか。うーん、申し訳ないけど、僕はパスかな」

「え、絶対に面白いのに?」

「待って、柊平くんは誘ってないから!」

「でもこの流れ、どう考えても三人で行こうって話じゃ……」

「ない!」


 おいおいお節介教師、ラーメンがのびるわよ。意地悪そうに笑ってる場合か。ああ、真由に飛びつきたいこの衝動を、誰かなんとかして!


 外の雨はすぐに小康状態になり、私は「念のため今日は寝ていた方がいい」と言って聞かない真由と一緒に、歩いて寮へ帰ることにした。


 道中、真由から午前中の行動を細部まで聞かされ、あいつが旧家の出であることと、いずれもスポーツ推薦で有名私大に入った三人の兄がいることを知った。


 楽しそうに歩く真由を見て、なにがそんなに楽しいのかと聞きたかったけど、真由が楽しければなんでもいいやと、愚問は喉の奥へ飲み込んだ。


 寮の玄関に着くと、急に視界が明るくなって、二人で空を見上げる。


 雨雲の間から、青空と太陽が見えた。


「ああ、夏だわ……」


 梅雨明けを知らせるまばゆい光に、私たちは思わず目を細める。


 こうして、勝負の夏が幕を開けた。



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